一般国道352号
種苧原・城山トンネル旧道
第11部(完結編)

2021年9月25日 探索 2022年3月21日 公開

旧道から現道に合流して振り返り、改めてその風景を観察してみたのがこれだ。どうだろう、実にそそられる風景じゃないか。こんな風にあからさまに分岐していてそそられる旧道の分岐点は、直近ではここからさほど遠くない木沢隧道で出会った以来だ。しかも電柱が旧道方向に敷設されていると言うことは、作業道として最低限の保守が行われていると言うことなので、通行できる可能性が非常に高い(もちろん、そうでない場合もある。路盤が途中でゴッソリなかったりとか)。もし、ここを初めて見たら・・・突っ込んで行ってるな、たぶん(笑)。

上の画像よりもう少し引き気味で城山トンネル坑口を撮影してみる。左側には市町村境の表示板が。そう、ここは長岡市(旧古志郡山古志村)と魚沼市(旧北魚沼郡広神村)の境になる。広神村方向から来ると旧道は正面の小高い山の縁に沿って進んでいくが、いかんせん道幅は狭くて交通のネックになっていたのだろう。今は正面に見えている城山トンネルと、その先の種苧原トンネルで線形改良と道路の交通容量増加を図ったものと思われる。

今度は魚沼市方向を見てみる。城山トンネルを出た現道は、そのまま山間の谷になった部分を旧広神村市街地や広神ダム方向へ向かって進んでいく。左脇には魚沼市の市町村境の表示板。城山橋から続いた旧道区間もここまでで、広神ダムまではもうすぐだ。そういえば、路面を見るとここも第10章のところで書いたように、路面の左半分と右半分に分けて舗装してある。センターラインのところには真っすぐの継ぎ目跡が見えるから、ここに雑草の種などが入ると芽が出てニョキニョキと伸びてきて、一直線の草の帯になるのだろうな。
さて、先に見える橋の名称を確認してみよう。まずはここから見て左側手前の親柱から。

この橋の名称は郡界橋。こうした親柱に記されている橋の名称は普段はあまり気にされないものだが、私たち探索者にとってはこの名称ですべての謎が解けることもある、銘板が非常に大切なものだと言うことは冒頭で書いたが、この「郡界橋」と言う名前も、この周辺の合併の歴史を知らないと「?」になると思う。

この橋が渡る和田川が長岡市と魚沼市の境界線になっているが、その昔は北魚沼郡広神村と古志郡山古志村の境界だった。双方の郡も非常に歴史のある名称で、古志郡にあたっては古く大宝律令の時代からのもの。この「古志郡」と言う名称が歴史に登場してくるのは702年(大宝2年)と言うから、1320年も前からの名称だった。
対して、北魚沼郡と言う名称が登場してくるのは1879年(明治12年)4月9日。 郡区町村編制法(下記の枠内参照)と言う法律の新潟県での施行により、魚沼郡のうち1町156村に行政区画としての北魚沼郡が発足。ここで初めて「北魚沼郡」と言う名称が歴史上に登場してくる。古志郡と比較すると1000年以上後(!)だが、それでも140年余前だから、今の時代に生きる私たちにとっては、今一つ想像しにくい。

だが、その境界線が今もここにあると考えたら、どうだろうか?。
当時の境界線が、この和田川だったかどうかは明確でないが、そこに掛けられた橋の名前は「郡界橋」。時間を遡ることが出来るなら、ぜひ702年や1879年まで遡って、この地点を見てみたいと思う。それはそんな様子だったのか。想像するとワクワクする(笑)。

郡区町村編成法・・・それぞれの村にいた戸長を民選とすることで地方に一定の自治を認める代わりに、戸長の上に官選の郡長・区長を置き、更にその上に同じく官選の府県知事を置いて、更にその府県知事を内務省が指揮することで、旧来からの地方共同体の「部落」の解体を行って中央集権体制を作ろうとした。だが、地方における部落単位でのまとまりが非常に強く、解体は出来なかった。その後、この郡区町村編成法は1888年(明治21年)4月17日に制定された市制・町村制、1890年(明治23年)5月17日に制定された府県制・郡制の施行時に、各道府県において(明治33年(1900年)4月1日まで)順次失効した。

次は右側手前の親柱。そこには一般国道352号線とあり、この橋が県道(主要地方道)広神長岡線より後の国道指定以降に建造されたことがわかる。この当時から、この先の萱峠の未開通区間は存在していたから、数十年単位の時間をかけて整備されていくのが道路であり、やはり地域の発展には道路が重要なのだ(そういえば村上市の笹川流れを含む海岸線を走る国道345号も、芦谷から鵜泊に至る芦谷改良は32年、地元の名士、菅原治郎吉が1896年(明治29年)8月に「人々が安心して通れる道を作る」と決意してから、およそ127年。実に一世紀以上に渡って道路改良が続けられた)。

さて、これは右奥側の親柱。ひらがなで「ぐんかいばし」と刻まれており、「し」の上に点が付く字体になっている。こうして見るとありきたりな親柱で銘板ではあるものの、竣工から時間を重ねてきただけの風格があると思うのは私だけだろうか。ちなみに、この橋が跨いでいるのはこのレポートでおなじみの和田川だ。
どうも、私のレポートには川岸を走っている旧道を取り上げることが多いように思える。旧道が川の脇を通っているが故に崖崩れや路盤消失などが多いからなのか、それともただの偶然か。ちなみに、このレポートの後に用意している場所も・・・川沿いだな・・。

最後は左奥側の親柱。そこには竣工年月日が刻まれていた。それによると、竣工は平成元年十月。西暦に戻すと1989年。てことは、城山トンネルもその辺りの竣工だろうか。坑門にある銘板を後で確認してみよう。郡界橋と言うキーワードだけで、これだけのヒントが掴めた。銘板一つでもバカに出来ないと言うのは、こういう理由からだ。
さ、それではトンネルの銘板を見に行ってみよう。



なかなか立派な城山トンネルの坑門。コンクリート製ではあるものの石組み状の意匠が施されていたり、立派な扁額が取り付けられていたりして、山を穿っているという気迫のようなものを感じる。翼壁の左側には銘板が見える。そこで、近づいて確認したのがチェンジ後の画像だ。そこには「城山トンネル 1997年12月 新潟県 延長128.0m 幅7.0m 高4.7m 施工 株式会社加賀田組」とある。

・・・おや?。郡界橋が竣工したのが1989年。城山トンネルが竣工したのが1997年。と言うことは、郡界橋が竣工した際の国道は、今で言う旧道を通っていたことになる。これはたぶん種苧原トンネルも同じだろう。ちなみに種苧原トンネルから城山橋までの区間が2車線になったのは2013年10月31日だ(山古志支所だより 2013年10月号6ページ

ふーむ・・・それなら、何故城山橋を架け替えなかったのか?。これが謎だ。

広神側から2車線の快適な道を走ってきて、種苧原トンネルを過ぎると更に道は格段に快適になり、気持ちよく走っていたらいきなり現れるのが、幅員減少と1車線の幅の橋、城山橋。しかも最大重量14.0t(笑)。
やっぱり、今となってはこの城山橋が最大のネックになっているような気がするが、気のせいか(^^;


このレポートは城山橋に始まって城山橋に終わる。実は最初からそんな気がしていたが、やはりそうなった。
最後に、この探索の中で一番のお気に入りとなった画像を見て終わりにしたい。

この画像が、この道本来の姿のような気がしてならない。ボンネットバスが向こうから走ってきそうな気がするのは、私だけだろうか。このレポートの完結編は歴史を追い求めることではなく、想像して終わることにしよう。

狭い道ながらも古くから広神村と山古志村、もっと言えば北魚沼郡と古志郡を結ぶ道として活躍してきたこの道。やがて時代は移り変わり、広神長岡線として主要地方道に指定(きっとその前には郡道にも指定されていただろう)され、その道は国道指定され、一般国道352号となり現在に至る。

この旧道は、途中に美しい景色があるわけでもないし、大規模な崩落があったりして一種のドラマ性があるわけでもない、どこにでもある素朴な普通の旧道だ。でも、私は通っていて非常に気持ちよかった。

また近くに来たら、訪れることにしよう。
でも、今度は転ばないようにしないとね(笑)

一般国道352号
種苧原・城山トンネル旧道

完結。