一般国道352号
種苧原・城山トンネル旧道
第1部

2021年9月25日 探索 2022年2月9日 公開

と言う訳で現地。この日は土曜日で、秋の素晴らしい青空が広がる一日。今の時刻は15時30分ころ。私は長岡市の種苧原地区の国道352号にいた。ここはその種苧原地区の大谷地地区から魚沼市方向に少し走ったところにある橋の手前にいた。この橋は一応国道なのだが、御覧の通り14t規制が行われている橋だ。その14t規制の標識は表面が一部剥げてしまって、いささか物悲しい雰囲気も漂っているが…ここは接近して確認してみよう。

まずは親柱から。これは左側の親柱で、そこには実に雰囲気のある字体で「じょうやまばし」と書かれた銘板が埋め込まれていた。その手前には「新潟県」と刻まれたデリニエータ。国道ではあるものの、その管理は新潟県の管理になるので、このデリニエータが立っている。この反対側の右側の親柱の銘板は残念ながら失われていた。おそらくはその銘板に竣功年月日が刻まれていたのではと思われるが…。

橋を渡って対岸にやってくる。ここにも14tの規制標識があるが、取り付けられている標識柱がオレンジというのが変わってていいじゃないか。親柱はなかなか立派なものの、欄干はおそらく後年になって取り換えられたようで、いささか貧弱にも見えるし、国道としての交通量におよそ耐えられるものではないことは明白だ(ま、三桁国道ではあるんだけどね)。画像には太陽光によるスポットが一部に入ってしまったが、それだけ天気がいいってことでご容赦いただきたい。

左側のこの親柱には「県道広神長岡線」の銘板がはめ込まれていた。これは国道352号に昇格する前の名称で、主要地方道の時の名称だろう。広神(ひろかみ)とは、かつて存在した行政区域の広神村(ひろかみむら)のことで新潟県北魚沼郡に存在していた。広神村は2004年(平成16年)11月1日、平成の大合併によって小出(こいで)町・堀之内(ほりのうち)町・湯之谷(ゆのたに)村・守門(すもん)村・入広瀬(いりひろせ)村と新設合併で魚沼市が発足し、広神村は廃止となったのだが、この合併によって北魚沼郡は川口町を残すのみとなった。だが、その川口町も2010年(平成22年)3月31日に長岡市に編入合併。同日に北魚沼郡は消滅することになる。

旧道を辿っていると、こうして旧行政区域の地名が残った橋の銘板に出くわすことは、しょっちゅうある。中には「?」となるものもあったりするが、そのほとんどはその橋の素性を調べる上で貴重な情報となることが多いし、ひいてはその道路の歴史を紐解くヒントにさえなりうる。

この銘板をわざわざ外して持ち帰る方々がいるようだが、橋の銘板やその他の様々な銘板は、そこに存在して初めて銘板として光輝くもの。それを外して持ち帰ったからとて、ただの金属の板に過ぎず、その銘板が取り付けられていたそのものも一緒に存在しないと何の意味もないし、ひいてはその存在(橋やその他の構造物)の素性や歴史を消してしまうことと言うことに他ならないのだ。

どうか、外さないように。

閑話休題。つい熱くなってしまったが、話を本題に戻そう。
この看板は城山橋を渡った左側に設置されていたものだが、どうやらこの地域はもともと地すべりで注意するべき地域でもあったらしい。この地域は2004年(平成16年)10月23日17時56分に発生した中越地震の震源地に非常に近く、大被害を受けた地域でもある。その理由は、この付近がもともと地滑りの警戒地でもあったこともあるのかもしれない。

城山橋を過ぎると、冒頭で紹介した画像の場所に出る。ここが現道と旧道の分岐点だ。つまりこの旧道は他の多くの例に漏れず、そばを流れる川(和田川)に沿って進む道形を取っていたと言うことになる。快晴で夕刻に近いので木々の影が非常に長く、気分的には夕方の散歩という感じだが、何かの痕跡を見逃さないように気を付けて進むことにしよう。

ところで、この和田川はこの先もこの国道352号に寄り添うように進み、魚沼市(旧広神村)にある広神ダムを経て破間川(あぶるまがわ)に合流しているが、その広神ダム付近にも旧道があるようで、ここは後日探索することにしている。

それではいよいよ旧道に進入!

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