一般国道352号
種苧原・城山トンネル旧道
第7部

2021年9月25日 探索 2022年3月5日 公開

さて、前回の続きよろしく旧道の真ん中に突っ立って、この橋のことについてあれこれ考えている。欄干の上に取り付けられているガードレールの上の板は激しく歪んで曲がっていて、これはきっと雪の重量で変形したものだろう。橋はよくあるコンクリート桁橋、親柱が健在なので、いよいよ確認してみよう。

まずは左側の親柱。ここには竣功年月日が刻まれていた。それによると、この橋は「昭和六十二年十月竣工」。昭和六十二年と言うと、西暦に直せば1987年。余談だが、この年は日本国有鉄道が解散して民営化されてJRになった年だ。そう考えると実に懐かしく感じる。
それはさておきコンクリート路面のこの橋、こうして見るとなかなかの風格じゃないか。ウロウロしながらじっくり眺めてみることにしよう。次は左側の親柱。そこには・・・?

反対側の左側の親柱には・・・一文字だけ漢字の部分は「お」だろうか。そうすると、この橋は「おおつぼばし」と言うことになるが・・・この旧道の橋に取り付けられている親柱の銘板は、どれも非常に流暢な字体で書かれているものが多い。しかも私が撮影し忘れたのか、対岸右側の銘板を撮影していないのがほとんどなのだ。何故だろう…?
ところで、親柱はコンクリート製の四角柱のよくある親柱だが、そこに苔などが表面を覆ってきていて、いい感じに時間を重ねていると言う印象だ。もちろん、それはこの道が旧道になっても現役で活躍しているからに他ならないのだが。



対岸の親柱を見てみると、そこにはまた非常に流暢な文字で「一般国道三百五十二号」と刻まれていた。消えかけている路側帯の白線が、何となく物悲しさを演出してくれる。ガードレール製の欄干も現在の橋の欄干の高さと比べると少し低く、時代を感じさせてくれるが竣功は1987年と比較的新しいものだ。
ここで一つの疑問が浮かぶ。この橋は架けなおされたものではないかと。もしそうなら、近くに古い橋の痕跡があるはずだが、探索時はそこまで思い浮かばなかった。もう一度行く必要があるだろうか。

「おおつぼばし」を後にして先に進むことにしたのだが、左カーブの先を見てみると現れたのはまたしても橋!。ホントにこの旧道は橋が多いなぁ。センターラインもなく、路側帯を表す白線も擦れて消えかかり、対面2車線の幅がある道は真ん中に車が通ったタイヤの跡が刻まれている。
ま、通行する車もないので、周りの風景を楽しみながらのんびりと歩いていると・・・

この橋に辿り着いたのはいいが、その途中で道を横断していた沢の水に足を取られ、派手にすっ転んでしまった。おかげで尻と手の平を強打してしまい・・・ひとまず捻挫や骨折はしていないようなので、痛い尻をさすりながら足を引きずって、ここまでたどり着いたと言うわけだ。
そこに現れたのは、また橋。思わず「またかい!」と大声で言ってしまった。ここが旧道で、あまり人通りがなくてよかった(笑)。

さて、その橋だが・・・親柱には立派な銘板が埋め込まれていて、そこには「昭和四十年三月竣工」とある。この前の「もりんたばし」は昭和39年、「おおつぼばし」が昭和62年竣工、この橋は昭和40年竣工・・・。この22年の差は何だろう?。それに「おおつぼばし」では右側に竣工年月の銘板が付けられていたが、この橋は左側、「もりんたばし」ではこの橋と同じように左側・・・。竣工年が違うだけなのかもしれないが、何か引っかかる。もしかすると、「おおつぼばし」だけ後年に架け替えられたのかもしれない。この辺は帰宅して少し調べてみよう。

右の親柱を確認してみると、橋名が刻まれていた。その名前は「おおかわらはし」。川が「河」なのか「川」かは反対側の親柱のどっかに刻まれているだろう。草に埋もれてしまっている親柱は何となく物悲しい雰囲気だが、橋自体は現役で活躍しているので、そう感じるのは「おおかわらはし」に対して失礼と言うものかもしれない。でも、その銘板はこれまで通り立派な字体で刻まれていた。

反対側左側の親柱には「もりんたばし」と同じように「県道広神長岡線」の文字が刻まれている。確か「おおつぼばし」だけは「一般国道三百五十二号」と刻まれていた。てことは、やはり「おおつぼばし」だけ何らかの理由で後で架橋されたようだ。
欄干の代わりにつけられていたガードレールは「レール」の部分が錆びの腐食と雪の影響で外れてしまって、欄干の柱に立てかけられているが、その姿は原型をとどめないほど歪んでしまって、改めて雪の力を思い知らされる。

この橋の名は「大川原橋(橋ははしごたか)」。これまでと同じように下草に埋もれてはいるものの、この橋の名前を記した銘板は、今の橋の様相とは似ても似つかぬ立派な字体で堂々と刻まれていた。「もりんたばし」から「おおかわらはし」まで、短い間に3本の橋が架かっていて、この道が和田川に絡みつくように走っていることがよくわかる。川と共に走る道と言うのは災害と隣り合わせと言う現実もあり、種苧原トンネルを中心とした新道が造られたのだろう。
だが、過去はこの道や橋を主要な交通路としてバスが走り、車が走り、人が歩いて雪国の交通を支えていた。それは今でも変わらないと思う。

なんだか、最終回のような雰囲気になってしまったが、探索はまだまだ続く!。

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