一般国道49号
福取トンネル旧道
惣座峠 第12部

2022年5月4日 探索 2022年8月28日 公開

カーブを抜けて見えた景色は、私の一つ目の目的地である惣座峠。福島県令(現在の福島県知事の役職に相当する)である土木県令三島通庸が通した道だ。その証拠に、この先に一里塚があったりするが、それはまた後程。今は半世紀経ってもこのように健在の、この峠を慈しみたい。
舗装は傷んでいるものの、それこそ今でも峠の向こうからバスでも走ってきそうな雰囲気だ。せっかくだから、このまま景色を楽しみながら歩いていく。

スノーポール(道の路肩の左右に立っている赤と黄色の棒。これは冬の積雪深をドライバーに知らせるためと、路肩の位置を知らせるために存在する。通常は直接立てられることはなく、デリニエータの先端の穴に差し込んで使われる)が左右に立っていて、その周りの木々はまるでモーゼの十戒のように、峠道に進路を譲っているかのように見える。この峠を過ぎれば福取の宿場町、もうすぐ目の前にその姿が広がるだろう。それは私が峠道の旧道を辿っていて一番好きな瞬間でもあり、まるで当時の旅人のようにホッとする瞬間でもあるのだ。
ただ、当時の旅人はこの福取の宿場町で一息つけるが、私はそうはいかない。宿やお店、ないもんね(笑)

惣座峠だ!

左右の法面は多少崩れてはいるものの、一級国道の峠道としてその貫禄は十分。山を切り裂いて「切通し」として道を通した当時の技術者に、最大の拍手を送りたい。正直、これだけの土被りがあれば切通しにせずとも、隧道でも良かったはずだ。それをどうして切通しにしたのかはわからないが、こうして峠の手前に立って受ける印象として、左右の圧迫感と風格は蒲萄峠以来のような気がする。さぁ、福取の峠を越えよう。

惣座峠を抜けて福取の集落に降りてきた。福を取る峠。そこに宿を取ったり、茶屋で休憩するだけでも福をいただけるような、非常にめでたい集落の名前ではないか。ここを目指してクマと出会い歩いてきた私も、福をいただけるだろうか(笑)。
ところで、この福取の集落は今でも住民の方々が暮らす現役の集落であり、そこを撮影するのは少し躊躇われたので、撮影は行っていない。ご了承いただきたい。と言う訳で次の画像は・・・

ここは福取の集落を過ぎて最初のカーブだ。正面の杉林は植林されたものだろうか、背が高い杉の木が路面に日陰をつくっていて、今日のような強い日差しの日にはホッとする。往時の旅人もそう感じたのだろうか、確かこの辺には「福取の一里塚」があるはずだが・・・。
緩やかに見えて結構急な、下り勾配の左カーブで一気に峠を降りている道路の状態は普通の道と変わらず、舗装状態も良くて歩きやすい。半世紀前の当時は今みたいにパワーがある車ではないから、喘ぎ喘ぎこの峠を越えていたことと思う。



あったあった、福取の一里塚。無造作に置かれた案内板と、白く目立つ標柱が立っている。標柱の隣にこんもりと地面が高くなっているのがわかるが、これが一里塚だ。チェンジ後の画像は、その案内板を撮影したもので、反対側を見ると確かにこれと同じような盛り土があった(←なぜか撮影していないヤツ)。てことは、ここが街道だった当時もこの道幅だったと思われるが、内容を読むと設置されたのが1667年(寛文7年)ではないかとある。となると、現在の2022年(令和4年)から遡って、実に355年!。道の傍で旅人に一里の距離を伝え続け、悠久の時間を過ごしてきた一里塚。この惣座峠の近くには「一里岩(いちりいわ)」もあったはずで(当時の会津街道が地形の急峻な場所を通っていたことで一里塚が造れず、やむなく岩を置いたとされる。津川方向に下り、八木山集落の手前に存在する)、悠久の時間の流れを感じることが出来る場所だ。

広い道幅はここで終わり。1車線分がガードレールで封鎖され、ここからいきなり1車線の道になっている。右側の広い空き地のように見える場所は、以前に砂防堰堤の工事が行われた際に事務所や資材置き場、駐車場として整地された場所で、その昔は広い原っぱだった。ここから見える正面の杉の木は下枝が綺麗に刈り込まれて手入れされていることから、伐採される際はこの空き地が作業場や搬出場になるんじゃないかと思う。

旧道は大きな右カーブの緩やかな下り坂で八ツ田の集落を目指していて、もうすぐ現道に接近・合流するはずだが、最初の合流場所は旧道の道筋ではなく、後に利便性を考えて造られた道だ。本来の旧道は、現道に接近したあと少しの間だけ並走して合流するようになっている。

数年間タイミングを見計らっていたこの惣座峠の探索も、あと少しで終わりだ。一抹の寂しさもあるが、最後まで安全に進めていこう。

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