一般国道49号
福取トンネル旧道
惣座峠

2022年5月4日 探索 2022年7月11日 公開

国道49号。旧一級国道49号であり、古くは二級国道115号。福島県会津地方と新潟県を結ぶ区間は越後街道として古くから存在していた。これが1879年(明治12年)10月、仮定県道の一等路線として指定される。その後、三島通庸(みしまみちつね)の福島県令就任後、越後街道の区間は会津三方道路として重点的に改良された。

またまた登場してきた三島通庸。ここを御覧頂いている方々ならご存じの通り、土木県令として山形県や福島県に赴任。山形県令ではあの有名な萬世大路、国道113号の前身である小国新道を造り、福島県令では会津三方道路の建設を推進して、現在の国道49号の前身となる道づくりを進めた、あの人物だ。ここでも再度登場である。

仮定県道

明治時代の道路の仕組みと仮定県道については、当WEBの「新潟県一般県道78号大潟高柳線 尾神隧道第7部」で詳しく解説しているが、これを引用する形で再度解説していくことにしよう。少し長くなってしまうが、どうかお付き合いいただきたい。

明治時代の道路関係の法律で最初に登場してくるフレーズの「道路法」。
日本で道路法が正式に成立したのは1919年(大正9年)だが、その前の1872年10月(明治5年)には、道路法の基になる「道路掃除条目」、いわゆる道路掃除法を公布。各府県地方官(下記の注釈を参照)に対して道路の維持管理の徹底を図っている。


地方官・・・明治憲法時代の都道府県の長官の称であり、国の官吏として都道府県内を統轄した。1868年(明治元年)の政体書によって直轄府県に知府事・知県事を置いたことに始まる。藩籍奉還後は、それまでの藩主をそのまま地方官とし、知藩事と称した。1871年(明治4年)7月の廃藩置県によって藩が廃止されて全国が府県に編成されて以降、府の長官は「府知事」、県の長官は「県令」と称され、その任免権は太政官が掌握した。


更に1873年(明治6年)8月には河港道路修築規則が各府県に布達。これは河川、港、道路をその重要度に応じて一等から三等までに分け、その等級ごとに修築費用の国と県の分担割合を明確にしようとするものだった。
これで道路を一等から三等に区分して工事の経費分担を定めたが、この中で一等道路は東海道や中山道などの主要街道、二等道路はそれに接続する脇往還で、一等二等とも工事は地方が行い費用の6割は政府が、4割は地方が負担することになった。
三等道路は主に地方の村内の道路で工事は地方が行い、その工事費用も道路が開通することで利益を受ける地方や地元の負担となったが、各級道路の認定は地方任せであり、費用負担をしなさいと言われた地元自治体としても予算の裏付けが出来なかったため、計画通りには実施されなかった。このため一等道路でも雑草が生い茂る始末で、三等道路ともなると通行することさえ困難な、まるで獣道のようなところも多かったとされる。

1876年(明治9年)6月8日。この日に太政官達第60号「道路ノ等級ヲ廢シ國道縣道里道ヲ定ム」が発せられたが、この日は国道、県道と言う言葉が道路法制に初登場した日だ。
この日、太政官は1873年(明治6年)に定めた道路の等級を廃止して、道路を国道・県道・里道の三種類に区分し、更にそのそれぞれを一等から三等に分けた。例えば県道については、一等は各県を接続するもの、及び各鎮台(当時の陸軍の地方部隊)と各分営を結ぶもの、二等においては各府県の本庁と支庁を結ぶもの、三等は地区の中心地から港や駅などの主要地を結ぶものとしたが、里道の規模や位置づけに関しては今の考え方とはかけ離れていて、今で言う都道府県道から市町村道の範囲に相当する、非常に広い範囲のものだった。
この太政官達第60号の示達に基づき、政府(内務省)は国道、県道の路線を認可するための資料を府県に提出させたが、このとき里道に関しては報告義務なしとなった。また、この資料は国道においてはおおむね提出されたものの、県道については十分な資料の提出がされず、その数も多かったことに加えて起点・終点の確定に多くの時間を必要としてしまったため、その調整に手間取ってしまった。そこで、県から申請があった県道の道路に関しては、追って調査して認可するまでは正式な県道として定められないと言うことになり、(仕方ないので)暫定的に認可することになった。
これがいわゆる「仮定県道」と言われるもので、1919年(大正8年)に道路法が出来ると、そのほとんどが県道となって仮定県道と言う呼称は消滅した。この1919年(大正8年)に施行された道路法の中で指定された国道が、いわゆる「大正国道」と呼ばれるものだ。

1879年(明治12年)10月、仮定県道の一級路線として指定された会津三方道路は、その後1882年(明治15年)2月に福島県庁に初登庁した土木県令、三島通庸の手によって開鑿事業に着手したとされる。仕事が早かったのか、それとも結構強引だったのか、三島は各所に軋轢を生んだようだ(いろいろ調べていると、どうやら後者らしい)。

その後、1963年(昭和38年)4月に二級国道115号から一級国道49号に昇格、1967年(昭和42年)に発生した羽越水害では交通が寸断、冬は豪雪で雪崩の危険と、新潟と福島を往来できる唯一の幹線道路だったにも関わらず、いわゆる「災害国道」だったため局所改良が進み、1971年(昭和46年)10月25日、福取トンネルの開通を以って会津若松から新潟間の第一次改築が完了する。ここでやっと、本題の福取トンネルの名前が出てくるのだ。あー長かった(笑)。
では、位置関係を確認するためにも、ここで地図を見てみよう。

雪辱を胸に

国土地理院の電子地形図(タイル)に注釈を追記して掲載

地図の通り、左が阿賀町津川方面、右が鳥井峠方面だ。現在の国道49号は津川側分岐点から山中を切り通しで進み、福取トンネルで山間部を一気に越えて、その先で惣座峠を越えてきた来た道と再び合流している。地図外になるが、更に先へ進むと右側に八ツ田の集落があり、その集落を貫く形で右に鳥居峠の旧道が分岐している。
今回の探索区間は矢印の区間で、国道49号旧道の「惣座峠」と呼ばれる区間だ。途中には福取の集落があり、ここには「福取の一里塚」と言う史跡もあることから、この福取の集落が鳥井峠を越えた後の宿場町だったことを想像させる。
この惣座峠をネットで軽く検索してみると通行した記録は非常に少なく、最後が2018年の11月。その前は2015年の8月と、数えるほどしかない。しかもそのほとんどの記録が、途中からヤブに阻まれて通行できずに終わっていて、詳しい記録はほとんどない状態だった。

実は、この旧道の存在は鳥井峠を探索した時から気づいていた。そこで一緒に探索しようとしたが時季が悪く、鳥井峠のように整備されていなかったため、私も途中で引き返したのだった。
それからおよそ3年。その間、何度もリベンジしようとしたが酷いヤブに阻まれ撤退を繰り返し、いつか完抜することを胸に時期を伺ってきたが、今年(2022年)になって、ようやく雪辱を果たす日が来た。

この峠をショートカットする福取トンネルの竣功は、先ほども書いた通り1971年(昭和46年)10月25日。私と同い年だから51年前(2022年現在)。と言うことは、惣座峠が旧道化したのは、トンネル前後の取付道路の完成のことを考えても、およそ50年ほど前じゃないかと考えられる。そう、半世紀も前なのだ。

この峠に至る道が、今はどんな状態なのかわからない。
だが、三島通庸が拓いたこの道は、きっと今の道にはない風景を見せてくれるに違いない。そう信じて、私はこの峠道の入口に立つ。トンネルが開通するまで多くの人が行き交い、福取の集落はRPG(ロールプレイングゲーム)ではないが、峠を越えた、あるいはこれから越える旅人の休息の場「宿場」だったと思うし、実際に多くの旅人が身体を休めたことだろう。そしてそこには多くの物語があったはずで、それらが紡ぎだす雰囲気に私も触れたい。そしてもう一つ、思うことがあって、なんとしてもこの峠を通ると願ってきた。それは…

50年近く前の峠道を
もう一度、表舞台に。

その峠道の入口に私は立っている。ここは惣座峠の津川側分岐点。最初はこうして穏やかな顔を見せてはいるが、この峠は途中から激しいヤブと言う牙を剥く。これまで何度も途中で阻まれただけに、今回の気合の入り方は半端ではなく、たぶんこの峠を通るのは一発勝負。今回で必ず完抜すると決めて、ここに立っている。
今回の相棒は、防水防塵の性能が高いD300、熊鈴はもちろん、録音したラジオを鳴らしてフォールディングナイフを身に着け、ダニ除けに忘れちゃいけない虫除けスプレー、革手に長靴、ヘルメットを装備して、峠に挑む。

さあ、行こう!
探索開始!

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