一般国道49号
七折峠 旧旧道編 第5部

2021年3月20日・2021年4月11日 探索
2021年6月14日 公開

旧4番カーブへ

と言うことで、あの不自然な広場の先から大きく回り込み、広場の真下に位置する旧旧道の路盤へやってきた。ここで地図を確認してみる。地理院地図には、この七折峠の旧旧道も破線の道として記載されており、この道を辿るには非常に便利だ。ただ、この地図は廃道化している道であっても、あたかも今も通れるかのごとく「しれっと(作者注…本当に「しれっと」)」記載されており、この地図を無暗に信用すると現地に赴いた際に痛い目にあうこともあるので注意が必要だ(例…三坂峠人面峠など)。
私なんか、公表していないとかレポートになってないだけで、何度痛い目にあったか…(苦笑)。もっとも、この地図は地形図であって道路地図ではないのだから、当てにする方がおかしいと言われればそれまでなのだが、この地図を探索に使用する場合には注意した方がいい。

さて、私が今通ってきた、この180度方向を変えて高度を下げるカーブは旧旧道からすると4番カーブになる。3番カーブはこの上の広場に入る手前の緩やかな右カーブがそれだ。その3番カーブを過ぎて、あの広場の入口付近から今私がいる場所を眺めたのが、次の画像だ。

右側上部端に見えている旧旧道の路盤が回り込むことで一気に高度を下げて、次のカーブへ向かっている線形が見えると思う。私は回り込んだカーブの出口にいるというわけだ。
ところで、ここで地図を確認したと先ほど書いて、それは現在地点を確認するためだったのだが、その時にもう一つ気づいたことがあった。実はこの私が立っている場所は、現道の七折峠トンネルの坑口直上だったのだ。そういえば、さっき上の広場で「ここは何だろう?」とウロウロしているときに見つけたものがあって、カメラ(この探索の際は私の中でエース機の存在であるD90を使用していた)の画像を確認してみる。すると…

この用地境界杭、上の広場の端っこで見つけたのだが、もしかするとこれは現道のトンネルに関連する用地境界杭だったのかもしれない。それなら、上の広場は七折峠トンネル工事に関連する施設があったか(例えば現場事務所とか、飯場とか)、この旧旧道の直下を通る磐越自動車道関連の施設などがあったのかもしれない。それならこの用地境界杭の説明もつく。
「うん、そうだ。きっとそうだ」と現地ではひとまず自分を納得させて、後は机上調査に任せることにする(って言っても私がやるんだけどね)。

この画像は、上の用地境界杭があった場所から只見川方向を眺めたものだ。現道の七折峠トンネルの坑口が画面中央下部のやや右側にこそっと写り込んでいるのがお分かりいただけると思う。現道は七折峠トンネルを出ると、その先で只見川を渡る藤大橋へ向かって一直線に進んでいるが、この画像の右側の山間部を通るのが束松峠(束松洞門)を経由する旧会津街道で、中央上部付近の山間部を通るのが、旧藤峠付近あたりになるだろうか。

こうしてみると、この七折峠は束松峠と藤峠と言う会津三方道路に登場する峠を一望出来る峠として重要な地点であり、三島通庸はそれを考えて元々は会津沼田街道の峠だったこの七折峠を会津街道に加え、只見川を渡河する直前で「藤わかれ」として会津沼田街道を分岐するように変更し、会津三方道路を形成したのかもしれないという気がしてくる。もしかすると、私が見ているこの景色と同じ景色を三島通庸も見ていたかもしれない。そう思うと、実に感慨深い。

さて、そこから視線を左にずらすと、今の私がこれから通る旧旧道の様子が写っていた。白いガードレールが今でも残るこの区間は、ある意味で旧旧道の存在を示す一番の場所だろう。その様子を確認すると、これから先は倒木や若干のヤブはあるようだが路盤自体はしっかりしているようで、通れないと言うことはなさそうだ。それに現道が右下に写り込んでいることを考えると、この位置から現道まで高低差はそんなになさそうなので、万が一この先で旧旧道の路盤が崩れていてもなんとかなりそう。

こうして七折峠 旧旧道編は、いよいよ後半に突入する。

さて、行こうか。

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