一般国道49号
七折峠 旧旧道編 第10部
(完結編)

2021年3月20日・2021年4月11日 探索
2021年7月4日 公開

わかれて出会う峠道

前回の章で見つけた橋の名前は「坂本橋」。この橋の名前、どこかで聞いたことがあると思ったら、現道を藤峠側から来ると、七折峠トンネルに入る直前に橋があるが、その橋の名前が「坂本橋」だった。こういった場合は通常「新」が付いて「新坂本橋」と言う名前になったりするものだが、現道の橋はこの旧旧道の橋の名前を受け継いだようだ。
ガードレールに銘板を張り付けるんじゃなくて、親柱の一本くらい立ててあげればいいのに…と思ったが、もともとは国道49号の旧旧道だから、当時は立派な橋だったのかも。それが何らかの理由(老朽化とか、車がぶつかったとか)で欄干を修理したか交換した際にこうなったのかもしれない。他に銘板はないかと探してみたが他にはなく、橋に付いている銘板はこれだけだった。

ところで、坂本橋が渡っているのがこの川。川と言っても水量は少なく、一見すると用水路のような感じで、歩いてでも渡れそうなものだが、この川の流れは旧道の七折橋が跨いでいる木の根坂沢から続いている。前方には現道に架かっている立派な橋が見えるが、あれが現道の坂本橋だ。この細い川にあれだけ立派な橋?!と思ってしまう。

旧旧道は坂本橋を渡ると急な登坂になって、一気に現道と旧道へ合流しようとする。もちろん、三つの道の路面の高さにこれだけの差があるのは、七折橋経由の旧道を通す際に相当派手に盛り土したであろうことに他ならないと思う。だって、おそらくは今通行しているこの旧旧道の道筋の高さが、本来の高さだっただろう。それが今はこの高低差。御覧の通り結構な急勾配で、最後の最後でこの急勾配は…いやぁ~効いた(笑)。

橋を通って旧道の合流する直前に振り返って撮影した。ここに立って旧旧道の方向を眺めていると、今日通ってきた道の風景が目の前に蘇ってくる。途中に広場あり、笹のヤブあり、ドラム缶あり、クマの足跡がありと、いろんなことがあって面白い道だった。もうすぐ現道と旧道に合流して旧旧道の旅としては終わるが、なんだか離れるのも名残惜しい。そんな気がする。

何気ない未舗装の道が合流するこの交差点こそ、現道・旧道・旧旧道が一つになる地点だ。藤峠方向から来ると只見川を越えた国道49号はここで現道、旧道、旧旧道と三つに分かれて別々の方向へ向かうが、峠を越えたその先でもう一度一つになって、その先の塔寺を目指す。いろんな道程があれど最終的に辿り着くところは同じで、時代によって道筋が変わってきただけなのだ。さぁ、旧旧道の起点で待っている車に戻ることにしよう。帰りは旧道を回っていこうか。

旧道を通って七折橋を渡り、旧旧道の起点まで戻ってきた。通ってきた今、こうして見ても、もう一度通ってみたい気にさせる道で、2時間ほど前にここから出発した旧旧道の探索は、非常に濃くて楽しかった。右側にチラッと見えている旧道の路肩に停めてある車に戻って装備を解除したあとは、自宅で机上調査を行うことにしよう。

調査編 七折峠と越後街道

ここからは机上調査編。
この七折峠を調査するということは、即ち越後街道を調べるということになる。なので、七折峠だけではなく近隣の峠にも触れないと、話が繋がらなくなってくるので、ここではこの付近の峠の変遷と言うことにも少し触れていく。
ということで、新潟県立図書館で分厚い「会津坂下町史」(全3巻もある)を読みふけることにした。

現在、七折峠を経由する交通路のうち磐越自動車道と国道49号は、福島県会津地方と新潟県下越地方を結んでいるが、かつて同じような性格で両地域を結んでいた古くからの主要な交通路である越後街道は、この七折峠に北に位置する鐘撞堂峠(かねつきどうとうげ)の東側にある勝負沢峠(しょうぶさわとうげ)を経由しており、この七折峠を経由していたのは、最初は会津沼田街道だけだった。
また、七折峠は会津盆地側(東側・塔寺(とうでら)方向)が緩やかな坂道なのに対して、只見川側が急な坂道になっている。これは大昔の只見川による侵食によるもので、河岸段丘(かがんだんきゅう。河川の中・下流域に、その河川の流路に沿って発達する、階段状の地形のこと。河成段丘(かせいだんきゅう)とも言われる)が存在する。旧旧道は、その河岸段丘を降りていくような恰好になるのだ。

「越後路の変遷図」 会津坂下町史より転載。


上の地図は越後路の変遷を示した地図だ。
この地図の中央に「気多宮」と言う地名があり、その右上辺りに「勝負沢越」と言う地名が見られる。この越後街道の勝負沢峠の道は、別名を「峯峠越え路」と言われ、途中には下に阿賀川の急流絶壁、上は急峻断崖の、まさしく「上は垂直、下も垂直」と言う冗談みたいな道で、風雨降雪の季節は通行するのにも特に難儀したので、この時代に既に裏街道(間道(かんどう))として存在していた束松峠経由の道も使われていた。ところが、この勝負沢峠の道は1611年(慶長16年)に発生した「慶長会津地震」によって発生した1キロにも及ぶ山崩れで全面通行止めとなってしまったため、急遽別の峠道を開削して越後街道の交通を確保した。これが鐘撞堂峠(かねつきどうとうげ)とされている。

慶長会津地震・・・この地震は別名「会津慶長地震」といい、1611年9月27日(旧暦の慶長16年8月21日)午前9時ころ、会津盆地西縁断層帯付近を震源として発生したものである。一説によれば震源は大沼郡三島町滝谷付近ともいわれるが、地震の規模マグニチュードは6.9程度と推定されており、震源が浅かったため局地的には震度6強から7に相当する激しい揺れがあったとされる。


その後、寛永年間に会津若松城修復に使用する木材運搬のために、それまで間道として使われていた勾配の緩やかな束松峠を整備して、荷車が通れるようにした。以来、この束松峠経由の道が越後街道として発展。沿道には宿場や運送店などもあり、沿線も集落も栄えていたが、その後1879年(明治12年)10月、当時の陸羽街道から分岐(現在の福島県本宮市付近)して新潟県へと向かう道路が仮定県道の一等路線として指定され、1882年(明治15年)に福島県令に就任した「土木県令」三島通庸が行った会津三方道路の事業により、越後街道は重点的に改良されることになる。

仮定県道・・・明治9年に太政官布告によって道路は国道、県道、里道の三種に分類されて、これは大正8年の旧道路法制定まで続いた。このうち国道と県道の各路線については各府県に調査と図面の調製をさせ、その後改めて路線番号による路線認定を全国で行う予定だったものの、各府県の調査が間に合わず、明治18年の路線認定の際は国道のみの指定となった。従ってこの時の全国の全ての県道は正式に政府によって認定されたものではなく、各府県が独自に指定していたもの、ということになる。これを「仮定県道」と言う。(参考資料…ヨッキれん/平沼義之氏「山さいがねが」道路趣味用語集より)


だが、この「会津三方道路」によって整備を指定された道筋は束松峠を経由せず、現在のように七折峠から藤峠を経由する道筋に改められることになった。これ以降、旧街道となった束松峠は、言わばまた間道に戻ってしまった形となってしまい、沿道の住民たちは次第に困窮していくことになる。もう一度、県道としての束松峠復活を願った住民たちは、束松峠の頂上付近に1884年(明治17年)から1894年(明治27年)までの間、「自力で」全長130間(およそ236m)もの洞門(隧道)を開き、1929年(昭和4年)に県道移管の陳情書を県に提出した。この時に開通した洞門が「束松洞門」だ。

会津三方道路開通以後、三島が作ったこの道路は1953年(昭和28年)5月に「二級国道115号新潟平線」に指定、その後1963年(昭和38年)4月に二級国道115号から「一級国道49号」に昇格することになるが、やはり藤峠・七折峠を経由していて、磐越自動車道は束松峠経由のルートを選定しているものの、トンネルで貫いているだけである。現在、この束松峠経由の道は1959年(昭和34年)に、福島県一般県道341号別舟渡(わかれふなと)線に指定されているものの、峠付近の3.6kmは未開通区間(自動車交通不能区間)になっていて、これまでに近代的な車道は開通していないが、徒歩では通行可能で、1996年(平成8年)文化庁によって選定された「歴史の道百選」78件のうちの15番「会津街道束松峠・滝沢峠越え」としても指定されている。

最後に、会津坂下町史で見つけた、磐越自動車道が開通する前の七折峠旧旧道を紹介して終わりにしたい。
撮影年度は不明だが、七折橋経由の七折峠バイパスが開通していることから、1960年代後半(昭和40年代前半)とみられる。チェンジ後の画像は、全く同じとまではいかないまでも、似たようなアングルから撮影したものだ。撮影したのは2021年4月。およそ60年後の風景になる。



幾多の人々が往来し、今も存在し続ける七折峠の
それぞれの峠道たち。
時代は変われど、会津と越後を結ぶ重要路線として、
今も多くの人を通している。

一般国道49号 七折峠

完結。

完結編参考資料…会津坂下町史、ヨッキれん/平沼義之氏「山さいがねが」