新潟県主要地方道56号
小千谷大沢線 第14部
(完結編)

2022年7月24日 探索 2022年11月4日 公開

ここからは机上調査編だ。この道の歴史を調べるにあたって、まずはネットで軽く調べてみたのだが、あまりにも情報が少なすぎる。…ま、もとよりその情報をそのまま書く気はないので、まずは新潟県立図書館へ行って行政が発行した町の歴史の本を調べてみた。この道の榎峠までの区間は今は十日町市だが、それは2005年(平成17年)の平成の大合併の以後の話で、それ以前の行政区域は中魚沼郡川口町。と言うことで、まずは川口町史を読んでみた・・・のはいいが、この川口町史、1100頁近くある分厚い本が4冊(通史編上下巻、資料編上下巻)もある。さすがに図書館での限られた時間で全ては読めないので、やむなく新潟市立中央図書館で借りて読むことにした(新潟県立図書館だと、この種類の本は「禁帯出」扱いになっていて、借りることも持ち出すことも出来ないのだ)。

と言うことで、新潟市立中央図書館で事前予約して借りたのだが、当日は川口町史も4冊だけでやめておけばいいものを、どうせ必要で借りるのだからと、川口町史と同程度のボリュームの柏崎市史(上中下巻3冊)まで借りてしまった。
かくして、合計7冊、優に8000頁もある本たちがしばらく私の机の周りでひっくり返って読まれるのを待っている状態だったが、ようやく読みふけることが出来た結果、この道の歴史が見えてきた。
さ、ここからが机上調査編の本編だ。まずは地形図を確認してみよう。

1911年(明治44年)測図 1931年(昭和6年)修正測図 参謀本部発行 5万分の1地形図 岡野町 を使用したものである。

地図左側には「榎峠」「大沢峠」の、レポート中でおなじみになった峠の名前が見える。他に山野田や小白倉、大貝などの集落名も見えるが、この集落の行政区域である川西町や十日町市、小千谷市にあっては、その昔、長野県の善光寺への参拝のために整備され、佐渡の金を江戸に運ぶ道としても重要な役割を果たしたことで往来が激しかった「北国街道(別名善光寺街道)」の柏崎と、越後と関東を結ぶ「三国街道」とをつなぐ脇往還の「高田街道」が通っていた地域でもあった。特に小千谷市は、この高田街道の結節点として重要な地で、信濃川を使った舟運の要としても古くから発展した。

この高田街道の脇往還に妻有・三桶集落・大沢峠を通る道があり、その中でも三桶集落は上の地図で言うと右側中ほど、大貝の集落の上にある三桶集落のことで、古くは三桶宿と呼ばれ、渋海川を渡る渡し船もあり、大いに賑わった。
この高田街道の脇往還は、柏崎側から辿ると安田と言う集落で小千谷への本街道から分かれて、やがて大沢集落へたどり着く。この大沢集落は岡野町を通り松代・松之山(現在の十日町市松代地域・松之山地域)に向かう岡野町道と交差する集落で、ある種の要所となっていたようで、旅人が休憩する茶屋が賑わっていたそうだ。これは私の想像だが、茶屋が賑わっているだけでなく、様々な商人が商売をして取引をして賑わっていたことだろう。

さて、この大沢集落から分岐した高田街道の脇往還は、ここから山を隔てた小国郷と接する大沢峠を越え、山野田集落を過ぎて山野田峠を越え、苔野島(こけのしま)から三桶宿を経由して大貝集落に向かい、大貝から東に進路を変えて小国郷と妻有郷の境を越え、小千谷に到達していた。

この柏崎から大沢峠、三桶、大貝を通る道が高田街道の脇往還で、現在の県道341号の基になっている道だが、実はもう一つ「脇往還の脇往還」とでも言うべき道があった。その道は役人や旅人が越えるよりも庶民たちが越える道、いわば生活道路と言える道だったようで、柏崎から大沢峠までは高田街道の脇往還と同じ道を通るが、大沢峠の手前から分岐して南に進み、稜線伝いに2キロほど進むと峠に到達する。この峠を越えると妻有郷に入ることになり、渋海川を渡って小白倉の集落へ通じていた。
この峠は標高が317.8mあり、峠には遠くからでも一目でわかる大榎があったことから「榎峠」と名付けられていた。ここでやっと我らが「榎峠」の名前が、歴史に出てくるのである。

さて、この榎峠を通る道は近世(江戸時代)には小千谷の縮(ちぢみ)商人が柏崎港から荷を送る他に、柏崎港の荷扱いや田圃や畑の出稼ぎ、そして春には柏崎で水揚げされた鰯(いわし)を背負った魚の行商人たちが行き交うほどの、非常に賑やかで活気のある道だったようだ。
また明治の初期には峠に茶屋もあり、行き交う人たちの休み場所となっていたようで、そこでは商売も行われていたかもしれない。きっと活気のある茶屋だったんだろうなと思うが、峠に立っていたシンボルとも言うべき老衰した大榎が1952年(昭和27年)5月に倒れてしまい、その後に行われた県道の拡幅改良工事(主要地方道56号のことと思われる)で整地され、古き峠の面影は失われてしまった。だが、その中でも唯一名残として残っているのが、本文でも紹介したお地蔵様だ。

このお地蔵様の両側には何か文字が掘ってあり、探索時には読み取ることが出来ずわからなかったが、これは「右ハ赤谷塩沢、左ハ二筋山道」と掘られていたそうだ。また、道の脇に立っていたというその記録は、まさしく探索時の様子と合致する。と言うことは、私が通った時に感じた「この道は街道だったのではないか?」と言う思いは、半分当たっていたらしい。

多くの人々が越えた峠。そこには出稼ぎに行く人、荷物を送る人、行商に来る人、多くの人が行き交った賑やかな道があった。もしかすると、大沢峠を越える本来の脇往還(と言うのも変な表現だが)よりも賑わっていたかもしれない。その賑やかな峠の面影は今は見る影もないが、峠に残るお地蔵様が唯一、当時の賑やかな時代を伝えてくれている。

翻って現代の道としてこの道を見てみれば、細い道ながらも舗装されていると思って進んでいると、いきなり未舗装になると言う、実に楽しい道だった。その中でも特に印象に残っているのがここだった。それまでそこそこに広い道がだんだんと狭くなり、ここまで来るととうとう未舗装になってしまう。この光景に最初に出くわした時に、思わず笑ってしまったことを覚えている。

春の鮮やかな緑に包まれたこの印象的な道を、柏崎で水揚げされた春の鰯を携えた行商人がこの道を往来して、山間部の人たちに魚を届けた。また、秋には山で採れた農作物や山菜を携えて柏崎へ向かったことだろう。
原始の昔から、道は人間の生活行動範囲を示す有力なものだった。狩猟や採取のために踏み荒らしたところが恒久的な経路となるに従い、やがて日常的な生活必需の道となる。そして、その道は時間を重ねていくに従って人々にとって大切な道になり、多くの思い出と共に忘れられない道となる。

山中に未舗装のまま今も残る、脇往還の脇往還として栄えた道。
その道は本来の脇往還として栄えた341号よりも上の主要地方道に指定されて、現在に至る。その341号は舗装されて柏崎と小国郷を結んでいるが、56号は一部が未舗装のままだ。でも、往年の姿を残しているという視点から見ると、文句なく56号の方だろう。

遥か昔の古き道の面影を今に残す、
実に素敵な、楽しい道だった。
ありがとう。

・・・ただ、分厚い本をまとめて借りるのは
今回でやめにしよう(笑)

新潟県主要地方道56号
小千谷大沢線

完結。