一般国道8号
赤田トンネル旧道
曾地峠
 第7部

2020年8月13日 探索・2020年9月23日 公開

法面が崩れていた場所から先へ進むと、こういった感じのいかにも「旧道です」と言う雰囲気のこういった道が現れる。こんな道は私の大好物。路面のアスファルトに生える苔もいい雰囲気を醸し出しているじゃないか。立ち止まって眺めてみると、カーブの先からのんびりとバスがやってきたり、そこを歩く人が見えるような気がする道だ。

少し上り坂になって、いかにも等高線に沿って進んでいるような感じになってきた。にしても、右側の法面はほとんど垂直に近く、崩れたらどうするんだろうと言う気もしなくもない。これと同じような道は…そうだ、国道49号旧道の宝川白坂区間で見たな。そんなことを思いながら眺めていたら、今まで明るかった空がにわかに暗くなってきて、今にも泣き出しそうな空になってくる。今回は珍しくクルマで回っているので雨を気にすることはないが、それでも降らないに越したことはない。先を急ごう。

右に回り込んで、更に下がっていく旧道。路面のひび割れが目立つ道はダブルトラックがあったりして、ここも緑深い道だ。きっと冬には積雪で通行止めになるこの旧道は、峠の区間そのものよりも曾地の集落に降りる道の方が非常に距離が長い。なぜか私が探索するときは峠を中心として、その距離が長い方から探索してしまったりするのだが(沖見峠トンネル旧道がいい例だ)、今回はどうやら短い方から入ったらしい。おかげで非常に楽だ。

森の中を進む、曾地峠旧道。明治車道らしく、全体的に緩やかな勾配を保っているところが素晴らしい。長岡街道を沖見峠(妙法寺峠)から奪って表舞台に立った曾地峠。その道幅は沖見峠よりは広いものの、一桁の国道だったと考えると狭すぎる。ここなんか、普通自動車1台が通って丁度いいくらいで、対面通行なんか無理だ。おまけに、見てわかる通りガードレールなどは要所要所にあるくらいで他は一切ない。現道が完成するまでは、トラックなんかはいったいどうやって通っていたんだろう?と首を傾げてしまう。

山側の法面に、なんだか標柱がある。近づいて見てみると「地すべり防止区域」とある。やはりこの旧道の区域一帯は地すべり危険地帯であるようだ。昔に比べると一回に降る雨の量が非常に多くなっている感があるが、ここに限らずこういった旧道の法面などは、地すべりや崖崩れの危険が増えているのかも?と言う気がする。災害によって美しい風景を見せてくれていた旧道が失われていくのは非常に辛い。だからこそ、そうなる前に一つでも多くの旧道や隧道、未成道に訪れておきたいと思っている。



ようやく峠道の区間を抜けたようだ。前方には人家の屋根が見えていて、あとはこの森の切り通しのような区間を過ぎて緩やかな勾配を下りながら、そこを目指すだけになった。先に見える人家はおそらく曾地の集落だろう。沖見峠と同じくらい長い曾地峠も、もうすぐゴールを迎える。チェンジ後の画像は、同じ地点から振り返って撮影したものだ。なだらかな勾配と緩やかなカーブで下ってくる道は車道そのもので、明治時代は多くの牛車や馬車が行き交ったことだろう。こう考えると沖見峠の道はやはり狭く、勾配が急すぎた。この曾地峠が沖見峠に取って代わられたのも、仕方ないところか。

峠道を下りてくると、曾地の集落の中へ入る。峠を下りると道幅が広くなって対面通行になるが、それもつかの間で集落に入るとまた細い道になってしまう。この辺は元の西山油田の端っこに位置するらしく、ここに来る途中の道筋にも一つ油田の施設があって、今でも稼働している現役の施設だったが、冒頭でも書いたように、この油田と旧道はなぜか切っても切り離せないようで、東山油田(榎峠・比礼隧道)、西山油田(曾地峠・沖見峠)、新津油田(熊沢隧道)など、油田に関わった道は素晴らしい歴史を持った道だった。


この道筋から行くと、曾地の宿場町を越えたところが合流点になるはずで、それはきっと他の旧道と同じように、ものすごく目立たない感じでひっそりと合流してるんだと思う。
ここまでくれば、現道と旧道の合流点までもう少し。さぁ行こう。

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