一般国道49号旧道
宝川白坂区間 第7部
宝川集落編

2019年7月24日 探索 2019年9月13日 公開

ここからは、宝川集落の探索編である。この集落が車峠から延々と続く旧道の中間地点であり、鳥井峠への入口と言うことで(実際に宝川集落から鳥井峠入口までは、ほとんど離れていない)、越後側の宿場の八ツ田や福取(これは後に説明する)の宿と合わせて、会津と越後の境に非常に近い宿場と言うことは間違いないだろう。故に、何か旧街道にふさわしきものが残っているかもしれないと、期待に胸を膨らませる(?)私であった。

ここは、白坂宿へ向かう最初のスタート地点(ここ)から、反対側を振り返ったところである。見る人が見れば「こりゃ旧道だな」と言う雰囲気、そうでない人が見れば「ただの農道」と言うこの道が、実は国道49号の旧道なのである。最初のスタート地点と、ここの間には現道の国道49号が横断しており、多くの国道の中でも(北海道を除いては)数少ない直轄国道の貫禄を見せるがごとく、多くの車がひっきりなしに行き来している。もちろん、これから向かう旧道も数十年前はそうだったのだが。

一枚前の画像にある旧道の行き先にあった左カーブを曲がると、このような風景が広がる。道の先にはこんもりと茂る緑の帯が見えるが、あれが現道の国道49号だ。現道はこの辺から少しづつかさ上げされており、その道はやがて鳥井大橋へと行き着くことになる。旧道は、その現道のすぐ脇まで近づくものの合流はせず、少しの間現道に寄り添うようにして進み、宝川集落へ向かう道形を取る。この道が現役だったころは砂利道だっただろうから、この道をボンネットバスが巨体をゆらゆらと揺らしながら、ゆっくりと進んでいる様子を想像すると、非常に懐かしい気持ちにさせられる。
自転車をここぞとばかりにゆっくりと漕ぎ、先に見える右カーブを旧き風景を思いながら進んでいると…

やはり、同じ仲間の旧道なのか、鬼光頭川沿いの旧道と同じ雰囲気がするのは気のせいか。道幅はここにきて若干狭くなり、普通車一台分といったところだ。道路の右側には水田が広がっていて、農道としての役割をこの道は果たしているのかもしれない。道はこの先に見えるように右にカーブしているが、その少し先に寺院が見える。あの寺院から先が宝川集落の始まりのようだ。その手前左側に、草に埋もれながら、なにやら表示板が見える。もしかして国道時代のものかもしれない。興味深々で表示板に近づき、文章を確認してみると…

交通規制表示板だった。この道路は雨量が120ミリ以上になると通行止めになるらしい。それよりも私が驚いたのは、さらに左側の文章だった。「県道 会津坂下 山都 西会津線」。うそぉ、県道だったんだ、ここ?!(笑)
と言うことで、ネットで少し調べてみると…ここに記載されている県道の名称に一番近い名称を持つのは福島県一般県道43号会津坂下山都線だが、この路線は主要地方道であることから、おそらく主要地方道に指定されるときに分割され、指定変更されたものと思われる。

前の画像でも先の方に見えていた寺院の前までやってきた。なかなか大きな寺院で、その境内は良く整備されており手入れが行き届いているようだ。宝川の集落の入口ともいえる場所に存在しているため、鳥井峠の手前の宿場として旅人を迎える目印になっていたかもしれない。近くで観察したかったものの、無断で入るのも憚られるので旧道からその外見を観察していて、何気なく振り向くと…

馬頭観音じゃないか!

この辺りは旧街道の道筋に、そのまま旧道が国道として指定されていたようだ。それにしても大きな馬頭観音だ。峠道の途中で見る、自然石で造られた馬頭観音も歴史を感じることが出来て非常にいいが、こうして宿場にある馬頭観音を見たのは初めてかもしれない。越後街道の中でもこの辺りは峠に峠を重ねるほど峠が連続しており、福島県側だと直近は車峠、その次に藤峠があり、新潟県側だとこの先に鳥井峠、次に惣座峠が控えている。それだけにこの宝川宿と白坂宿の、宿場としての役割は大きかっただろう。人も馬も、いくつもの峠を越える途中にある、この二つの宿場で体力を回復させていたのだ。私も街道を追跡している身、手を合わせて一礼した。

少し先へ進むと、白坂宿の時と同じく文字がびっしりと書かれた説明版があった。非常に詳しく記載されており、街道を辿っている方々や旧道を辿っている私のような存在には非常にありがたいものなのだが、今日は非常に暑い日で、白坂宿の時と同じく立ち止まって読んでいると眩暈がしてきてしまった。画像として撮影し、のちの机上調査の際に画面で拡大してじっくり拝読することにしよう。

先へ進んで、ここから新潟県側へ向かおうとする旧道。多少逆光になってしまったが、ご容赦頂きたい。街並みには旧家が並び(街道時代のものかはわからないが)、宿場町の様相がたっぷりの雰囲気ある街並みだ。このように昔の国道は街道を基本に指定され、または造られたために、沿線にある集落をそれぞれ結ぶような道形となっていた。また、交通量も現代に比べると少なかったということもあり、今の時代のように交通事故などもさほど気にする必要はなかったのかもしれない。それから月日が流れ、今では国道は大きな都市を除いて集落から外れるようにバイパスが造られ、それまでの国道は旧道化し、またはそこから枝葉のように集落へ向かって道が伸びて、交通を確保するようになってしまった。

上の画像の地点から振り返って撮影した。街並みは昔からするとさすがに新しい家々が目立つが、道筋は街道や国道だった当時とさほど変わらないはずで、宿場町の様相を感じることが出来る。ほとんどの家が道路へ向かって玄関があり、街道を通る人々に何かしら商いをしていたのかも?と感じさせる。

旧道は2枚手前の正面に見える広場を回り込むようにして、宝川の集落を出る道形を取っている。この先には鳥井峠が控えていて、ここから次第に高度を上げ始めているようだ。この道は今でも健在で、地元の方々の散歩や、時折車が通行することもあり、街道時代から数えると百年以上前に造られたこの道は、今でも現役で人と物を通し続けている。

小山を回り込むと、この県道「福島県道徳沢宝坂線」に出る。山都町まで25キロの補助標識があり、もしかしてこの県道も「会津坂下 山都 西会津線」の名残なのかもと思わせるような、実にタイムリーな登場である。この先旧道は県道を横断して山中を100メートルほど進んで現道の国道49号に合流するが、この最後の合流部分は通行する車はほとんどない様で、路面が荒れている。旧道から出てくる車は県道に出ると、数メートル県道を進んで現道の国道に出ているようだ。探索時は鳥井峠付近の国道拡幅工事の工事事務所が脇にあり、旧道には重機を輸送する大型トラックが停車していたので、この部分の探索は残念ながら出来なかった。この区間は後日行う予定である。


ここまで、宝川集落から車トンネル手前までの旧道と、越後街道を辿った。次はこの道筋が現在までにどんな変遷を遂げてきたのか、(ほとんどわかっているような気もするが)今度は机上調査で追跡してみよう!。

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