一般国道113号
八ツ口旧道 第8部

2020年3月7日 探索・2020年4月16日 公開

思い出の橋へ

これが二本目の橋だ!

崖崩れで斜めになった路面と灌木の林を過ぎて左カーブを過ぎると、すぐにこの橋が姿を現す。
だがここにも橋の銘板などはなく、橋の名称がわからない。欄干は金属で出来ていて、一見するとガードレールのように見えるが、それにしては変わった造りになっていて、半円形の鉄板がガードレールのようについている欄干だ。この橋の為に特別にあつらえられたものだろうか。橋自体はまだしっかりしており、渡るには一向に支障がないようなので、早速渡ってみよう。

山側を見ると、このように山肌が深く抉られており、そこに沢が流れている。橋はこの沢を越えるために架けられたものだ。上から落雪でもあったのだろうか、沢が流れている位置の部分だけ欄干が酷く傷んでいて、派手にぐにゃりと曲がっていた。ところで、右側に小さく見えているのは荒川だ。この辺りになると道は水面からかなり高い位置を走っていて、次の橋辺りで最高点を迎える。
もしこれから先、この橋が崩落することでもあれば、この道は完全に廃道となってしまうだろう。

今度は川側の欄干を見てみる。川側も同じ造りになっているが、よく見ていくと、山側の欄干とは一つだけ違うところがあった。川側の欄干にだけ、なぜか文字が刻まれているのである。それはこの橋が建造されたことに関連する、いわゆる「銘板」などとは違って、通行者が記念に刻み付けたもの(今なら犯罪としてニュースになってしまうところだが)だった。おそらくは当時の若者が刻み付けたものと思うが、いつ頃刻んだものなんだろう。

こんな感じで刻み付けてある。読んでみると、一番目立つ「明広」さん、その左下には「弘之」さん、少し左に離れて「幸次」さんの名前が見える。幸次さんと弘之さんの間には「AND」なんて文字も見えるから、この二人は一緒にここに来たんだろう。そうなると、明広さんの立場はどうなる?などと、ここで一人欄干にツッコミを入れていた私だ(笑)。
で、よく見ると、明広さんの刻まれた文字から赤いものが流れているように見える。この画面を見ている人は、心霊写真ではないのでご安心頂きたい。これは欄干の下地に塗られていた錆止めで、長年の風化でこうなってしまったものだろう。他の刻まれた文字も拡大してみると同様の現象が見られるから、多分間違いないと思う。このお三方は今、どうしているだろうか。
また、幸次さんの右上には「またきたよ」の文字があり、その下に「S56.5.23」の日付が刻まれていた。この日付は、後日調査した結果、この道が関川村道となって旧道化した後だった。このお三方が社会人となって久しぶりに故郷(方向からすると八ツ口集落だろう)に帰ってきた際に三人で会い、思い出の場所として訪れた時のものだろうか。この道の歴史を色濃く感じた瞬間だった。

それより少し離れた左には「木沢稔」さんの名前が刻み付けられていた。
ここには日付も刻まれていて「43.8.14 PM4.44」とある。日付はやはり夏休み(お盆休み)のころで、八ツ口集落に帰省した際に思い出を辿ってここに来たのだろう。この橋は自分の故郷を一望出来る場所として、八ツ口集落を出た若者たちに心の原風景を焼き付ける場所としても活躍していた。名前を刻み付けたこの4人の若者は、今もお元気だろうか。道は廃道になってしまったが、思い出の橋は今もあの時と変わらない景色を見せてくれている。
その景色は…

絶景じゃないか!。ここに来るまで、途中にロックシェッドはあったし崖崩れも結構あって、ヤブや灌木にあっては林のようにあって、それを漕いで先に進むのに苦労した区間もあったが、この道を辿ってここに来ることが出来たことに、本当によかったと心から思った。4人の若者が文字を刻み付けた当時から荒川の流れは今と変わらないはずで、同じ景色を見ていたはずだ。また、当時は八ツ口集落より更に上の位置に鉱山街があったはずで、当時はかなり賑わっていたことと思う。
鉱山が閉山した今は山は静寂を取り戻し、その驚異的な回復力で自然に戻ろうとしている。これから先も、この景色が変わらないことを心から願う。

しばらくこの橋から離れることが出来なかったが、私は次の橋へ向かわなくてはいけない。でも、この道の、この橋に辿り着けたことに感謝した。途中で手に負えない路盤消失や橋の崩落などがもし起きていたら、4人の当時の若者が残した記憶に出会うことは出来なかった訳だから。私が撮影したこの画像は、当時の4人の若者に届けることが出来るだろうか。それが出来れば、こんなに嬉しいことはない。


この地点で全行程の8割の地点まで進むことが出来た。残りの構造物は橋1ヵ所だけを残すのみで、愛車の自転車が待つゴールも近いが、道はまだ上り坂が続く。先へ進もうと前を向くと、そこには…!

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