一般国道113号
八ツ口旧道 第12部

2020年3月7日 探索・2020年5月2日 公開

当サイト随一の長さとなったこの八ツ口旧道のレポートも、いよいよ今回で最終回だ。
レポートとして最長になってしまったし、この執筆当時は新型コロナウィルスが世界的に流行している最中で、机上調査で調べようにも資料が揃わないなどで深堀りは出来なかったが、それでもネットから出来るだけ調べてみよう。まずは旧版地形図から(と言っても1種類だけだが)。

大正2年測図 昭和6年要部修正測図 昭和16年部分修正測図
五万分の一地形図 小国

この地図は1941年(昭和16年)に部分修正された地形図だ。この地図では右下が小国方面、左が関川方面になる。現在の国道113号は米坂線に沿っているので、現道がこの地図上でどのあたりを走っているかはおよそ見当がつきやすいと思う。
ところで旧道は、この当時からしっかりと二重線で描かれており、地図上でも国道としての存在を誇示している。荒川もこの時代には八ツ口集落付近で激しく曲がりくねっており、これで水害が起きたらどうなるだろうと考えさせられるような川筋をしている。この付近の荒川は後世になって、八ツ口集落より少し下った場所に岩船ダムと岩船発電所が造られ、造られたダム湖により八ツ口集落も一部が水没することになる。
ところで、この地図を他に何かネタがないかと(穴が開くほど)眺めてみると…

大正2年測図 昭和6年要部修正測図 昭和16年部分修正測図
五万分の一地形図 小国

西澤橋、中澤橋、東澤橋(西澤橋を除いていずれも仮称)の姿が見える。中澤橋の対岸にある神社(調べてみるとこの神社は雷神社と言うらしい)も、やはり健在だ。それに、この3本の橋の区間の山側の法面の等高線の幅の狭さはどうだ。東澤橋と中澤橋の間にあるロックシェッドも含めて、この道路の構造物が全てこの地形が険しい区間に入っている!。
旧道が現役で頑張っていたころにはこの区間が一番危なかっただろうし、最初に出てきた建設業者氏が言っておられた「災害が頻発していた道なもんだから村道になっても維持管理が大変で、いつしか誰も通らなくなってしまった」という区間は、まさしくこの区間だろうと言うのは想像に難しくない。また崖崩れなどが頻発していたという話も、この地形図と実際に通った印象からすると、然るべくと言う気がする。

ところでこの地図は1941年(昭和16年)に発行されているので、第10部で書いた西澤橋の竣功年月の昭和13年(1938年)10月より後だから橋が記載されているのは当たり前なのだが、その前はどうだったのか?という疑問が湧いてくる。
ここは昭和13年より以前の旧版地形図が欲しいところだが、いつも取り寄せている国立国会図書館の遠隔複写サービスが停止しているので、再開したら早速取り寄せて調査したいと思う。

机上調査とは言っても、新型コロナウイルス肺炎の影響で図書館が閉鎖になり調べることが出来ず、かなり薄い調査となってしまったが、図書館が再開され次第調べてみたい。
これは最初にも登場した画像だが、この画像は八ツ口集落内にある吊り橋(八ツ口小橋)の跡にある広場から眺めたものだ。探索より3日ほど早く撮影したもので、今でも明確にはっきりと、そこに道があることを教えてくれる。これを見て「今なら通れるんじゃないか」と直感でそう思ったのだ。

ところで、この画像を撮影した八ツ口小橋だが、八ツ口の集落内には昔は橋が二つあったようで、旧道から集落内に入っていく荒川に架かる八ツ口橋(この橋台の跡も現在の八ツ口橋から覗き込むと、ちゃんと残っている)と、集落内を流れる沢に架かる八ツ口小橋(この橋も主塔の跡も残っている)。この二つの橋は構造も非常によく似ていたようで、大小の吊り橋が縦に並んでいたようだ。実に絵になる風景だっただろう。 この橋のことも、後ほど調査してみたいと思う。


旧道が現役だった頃も、ここから眺めると国道を走っている車やバス、トラックがよく見えたことだろう。中澤橋に名前を刻んだ4人の若者も、ここからこうして道行く人達や車を眺めては、やがて社会に出ていく自分を夢見ていたのかもしれない。
私も、この道のことはこれから先、忘れることはないと思う。

と言うことで、この八ツ口旧道は今回で完結のはずだったのだが、関川村史を紐解くと興味深い記述が見つかったので、これを書いて完結としたい。と言うわけで、一回伸ばして第13部で完結!。

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