新潟県主要地方道58号
小千谷大和線
一村尾トンネル旧道 第11部
(完結編)
2023年4月22日 探索 2023年9月20日 公開
道路は文明の母
さ、いよいよ後山隧道へ突入だ。と言っても平成の時代まで現役で活躍していた、この後山隧道。開通は1962年(昭和37年)12月。旧道化したのは一村尾トンネルが開通した2000年(平成12年)5月。38年の長きに渡り後山と一村尾の集落を結んできたこの隧道を執念で開通させたのは、後山トンネル旧道第10部「眼差しに映る道」編で登場した、峠の頂上で眼下の後山隧道を見守るように設置されていた半身の銅像の本人である小川泰夫氏。今は現役を退いてしまったが、廃道となった今でも山を穿ち、道を繋いでいるこの隧道、今でも現役と言ってもいいかもしれない。
その隧道の内部はこのようにとても乾燥していて、非常に状態は良いと思う。この隧道は、これからも「青之隧道」の名にふさわしく、私たちに後山峠の物語を伝える道標になることだろう。
ところで、2020年(令和2年)3月に南魚沼市建設課が公開したトンネル修繕計画(個別施設計画)では「後山隧道は構造物の機能に支障が生じており、早期措置段階にありますが、路線の重要性等を勘案し、路線の供用を廃止しています。今後、供用の変更をする予定がないことから、後山隧道は、本計画の対策対象から除外します。」とある。すなわち、私が辿ってきた一村尾トンネル旧道は廃道と言うことになるが、地理院地図には道路として記載されている。
後山隧道、完抜!。今でも風格満点の坑口は健在だ。これで今回の探索は終わる。今はまだ雪が残るこの道を無事に探索出来て良かった。その坑口にはフェンスがあるが、私は一村尾側から進入してきたのでわからなかったが、道としては十分に機能していると思う。自治体の方々には、廃道にしてしまうのは簡単だが、現代では絶対に「路線としてこんな線形は取らないだろう」と言う線形を持っているのが旧道だ。そこには深く刻まれた歴史と、数多くの美しい風景があるので、どんな形でも残しておくと言う選択肢を考えて頂きたいと切に思う。
探索を終え、ベースとなった車の傍で休憩する相棒の自転車。後山隧道から現道に繋がる道に停めていたのだが、そのすぐそばにこんな橋があった。この橋も、おそらくは後山隧道と同じ時期に架橋されたものだろう。これも脇から覗き込まないとわからない、貴重な遺構の一つだと思う。
また、隧道に繋がる道にはこのように黄色と黒色のゼブラになっているコンクリートブロックが置かれているので、自動車やバイクは旧道に進入することは出来ないようになっている。ネットを軽く検索してみると、最近までバイクで進入出来たと言う記録もあるので、設置されたのは最近かもしれない。
あ、ベースとなっている自車が公開されるのは、実はこれが初めてだ(どこかでちょいちょい登場してるかもしれないが)。以前は軽自動車だったので、普通車になってスペースが向上した分コストが掛かるが、これは致し方ないところか。
橋を反対側からみたカット。一見すると橋はコンクリート製のように見えるが、コンクリート製でこの規模の橋ならボックスカルバートで十分のような気がするし、この橋が造られた年代を考えると(おそらくは後山隧道と同じ時期だろう)、最初は石組みの橋が後に改修を受けてコンクリートで塗り固められてるのかもしれない。高欄も親柱も無く、欄干の代わりにデリネータが付けられているだけの簡素な造りだけに、なんだか妙に気になるのだが、親柱もなく橋名も竣功年も知る由がない。地形図を見ると何かヒントが得られるかもしれないので、後ほど地形図を取り寄せてみようと思う。
この画像は…確か隧道を正面にして右側の川岸ではなかったかなと思う。石垣のように見えるものは「ふとんかご(角形じゃかご)」だろう。このふとんかごは、角形の網かごに石を詰め込んで一つの構造体として使う工法で、地滑り防止、法尻保護、盛り土、根固めなど多彩に使えるものだ。おそらく以前にこの川の法面が崩れ、それをふとんかごで治したものだろう。一見すると石垣のように見えなくもないこの補修方法、私はなかなか好きだ。
「あっ石垣だ!」と喜びながら近づいていくと、実はふとんかごだったって時がたまにある。そんなときにはイラッとするけどな(笑)
2枚目の画像・・・南魚沼今昔写真帳 郷土出版社 2001年 より抜粋
さて、問題はこの隧道左側の平場だ。この平場が何なのか、いくら調べてみても答えは見つからなかったが、路面右側の斜面に何となくヒントがあるような気がした。
チェンジ後の画像は、後山隧道の調査編でもご紹介した1962年(昭和37年)当時の画像だが、隧道の左側は一段下がって平地になっているし、隧道の左側も今のような突出型坑門のような感じではなく(と言うより、隧道の左の土砂が削られてしまったという感じだが)普通の隧道と言う印象を受ける。落石や雪崩の防止のために坑門部分を後世に延長しているかもしれない。
さて、路面右側の斜面にヒントがあると書いたが、この斜面は開通当時の画像と比べて、現在はなだらかになっている。そこで考えたのは、開通時から現在までにこの右側の斜面が崩れて、路面に落ちた土砂や崩れた土砂を隧道脇などに置いた、と言うことだ。それで埋め立てられて平地になってしまったと考えた。結局、これと言う確定的な理由は見つけることが出来なかったが、以降も継続調査するので情報があれば教えて頂きたい。
後山トンネルの開通は1990(平成2年)年10月、一村尾トンネルの開通は2000年(平成12年)5月。およそ10年間、この一村尾トンネルの旧道は現道として活躍していた、と言うことだ。
そして、その昔「後山峠を平らにして見せる」と当時の薮神村村長、小川泰夫氏が全てをかけて貫いた意思は、1943年(昭和18年)から57年の歳月をかけて、2000年の春にようやく完成を迎える。この道は今は無雪道路として活躍し、その様子を後山峠の上から小川氏が見守っている。
最後に、隧道を掘削するにあたって小川氏が後山・一村尾の集落の方々に告げた言葉を以って終わりとしたい。
道路と言うものを明確に表した名言だと思う。
道路は文明の母だ。
産業の生命線であり、集落の生命線である。
この道路が完成しなかったら、今後集落の発展はない。
新潟県主要地方道58号
小千谷大和線
一村尾トンネル旧道
完結。