新潟県一般県道440号
麓野積線 第4部
「太陽の神、月の神」

2023年8月12日 探索 2023年10月22日 公開

太陽の神、月の神

前回、道の左側に立つ石碑を発見したところで終わり、今回はその石碑をを眺めるところから始まるはずなのだが、その前にこの標柱を見てみよう。このWEB「古の道標」の名前の基になった、この標柱。未成道や旧道などを探索する時に、本当にこの道で正しいんだろうか?と不安になる探索者に「この道でよかったんだ」と自信を与えてくれる道標。それがこの「新潟県」と刻まれた標柱。「県」の文字が、貫禄ある旧字体の「縣」であることから見ると、この県道が相当に古い歴史を持つことがわかる。ただ、その割には県道番号が440号と、かなり後の県道番号になっているのよね。この辺が謎だ。
さぁそれではいよいよ、その道路左側に立つ石碑を見てみよう!。

日天月天塔!

こんな石碑は初めて見た!。日天月天とはこれいかに、と思って調べてみると・・・
「日天」とは太陽を擬人化した神であり、日天子(にってんし)、日神(にっしん)ともよばれるもの、「月天」とは月や光明を意味し、月は日没後の夜空で最も輝く存在で満天の星空を支配することから「星宿王(せいしゅくおう)」とも称されるものらしい。つまり日天月天とは陽と陰の要素を表すものであると言った方がいいかもしれない。しかし、日天月天塔とは・・・。
さっぱりわからない。少し周りを見てみよう。

石碑の左側を見てみると、建造された日が刻まれていた。そこには「昭和三年十二月廿四日」とある。昭和三年と言えば1928年、どうやらこの石碑はその1928年(昭和3年)のクリスマスイブの日に建造されたらしい(その時代にクリスマスと言う概念はなかったと思うが)。その石碑に深く刻まれた文字は今でも色褪せることなく、この存在を今に知らせてくれている。この石碑、今までどれだけの旅人を見てきたのか。きっと入口にあったあの小さな祠と共に、数えきれないほどの旅人を見てきたに違いない。そう思うと、この石碑がとても暖かいものに見えてくるから不思議だ。これが、時間が織りなす技と言うものだろう。

反対側を見てみると「野積内川村立」とある。この野積内川村を新潟県の資料で調べてみても出てこない。該当するのは野積村だが、この野積村は1901年(明治34年)11月1日に近隣の4市町村(寺泊町、北西越村、西山村、潟村)と合併し、寺泊町となっている。そこにも「内川村」の文字はない。はて、野積内川村とはどこを指しているのか。この石碑を見ながら、あれこれと考えていたが・・・そういえば、この県道の入口にバス停があった。確か、そこのバス停に同じような地名を見た覚えが。さっき見たばかりの、まだ新しい記憶を辿ってみると・・・

内川!

やっぱり!。これだな。古びたバス停に残っていたその名前は「内川」。野積内川村の「内川」とは、海側の野積集落の小字名だった。その遥か昔、新潟県の記録に残る前は、この辺りは野積内川村だったのだろう。あの石碑の建造が1928年(昭和3年)。1901年(明治34年)に寺泊町と合併して、その名前が大字名になった野積村だが、あの日天月天塔を建造する際は古くからの名前を使ったのだろう。それは地元に住む人たちの誇りと言えるものかもしれない。

さ、話を戻そう。この風景は日天月天塔から先を眺めたものだ。結局、日天月天塔はどういった素性のものかわからない。と言うか「日天月天」の言葉自体は知っていたが、それが石碑になるとどういった意味を持つのか、皆目見当がつかないと言うのが正直なところだ。想像では、この道を明るい太陽が照らす日中も、穏やかな月光が照らす夜も、どんな時であっても人の役に立つことを願って、この峠の頂点に建てられたのかもしれない。
それにふさわしく、この峠の風景は素晴らしいものと言える。この切通しや、右側にこじんまりと造られている疎石コンクリートの低い擁壁など、眺めていると涙が出るくらい峠道の王道と言えるものだと思う。やっぱりこの道は県道の指定以前に、何がしかの深い歴史を持つ道ではないかと思うのだ。

道はこれから山側の麓集落へ
楽しみだ。

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