一般国道7号
明月橋旧橋 第4部
(完結編)

2020年1月26日 探索 2020年2月20日 公開

旧道?歩道?

趣のある明月橋旧橋を渡って、遠目から橋を見られる場所まで旧道を辿ってきた。道の脇には少し高めの白い柵がつけられ、一見すると農道か現道を迂回する歩道のように見えるが、実は立派な国道7号の旧道である。今は舗装はされているものの、ここから見えている明月橋が現役だったころは砂利道だったことだろう。この風景から柵を無くしてみると、当時の風景が蘇るかのようだ。実に美しい。

旧道を辿って現道の合流部までやってきた。村上市側から国道7号を走ってくると、北中の集落を過ぎてほどなく右側にこの分岐点が見えてくる。こうしてみると旧道は現道から急角度で分岐しているように見えるが実際はそんなことはなく、道になってない部分の「いかにも旧道の路盤跡です」と自己主張している空き地が現道の脇に緩やかに合流するように繋がっているのだ。
ここまで来たので、今度は現道を通って今の明月橋を観察しながら戻ろう。

現道の明月橋の銘板。まずは旧橋側の銘板である。銘板自体は金属で出来ており立派な仕様であるものの、何か物足りなさを感じてしまう。実際ここでもそれを感じてしまい、なぜだろう?としばらく銘板を見ながら考えていると、銘板の字体が綺麗すぎることに気づいた。昔の橋の銘板にせよ、隧道の扁額にせよ、それらの字体はすべて手書きだったのだが、今はほとんどがフォントなのだ。
…綺麗なのはいいことだが、味気ないのはいただけないという気がする。

今度は反対側の銘板である。この銘板には竣功年月日が刻まれていたが、その日付が気になった。
竣功は平成15年12月。新しすぎやしないだろうか?。明月橋旧橋が平成15年まで使われていたのだろうか?。いやいや、そんなことはないよね。てことは、現道の橋は三代目なんだろうかと言う疑問が湧いてくるが、現在の橋の竣功年月が新しいので、少し調べれば理由はすぐにわかるだろうと言う気がした。今度は反対側の銘板を見てみよう。

現道の橋の名前が刻まれているが、今度は漢字表記だ。「新明月橋」ではなく「明月橋」となっている。旧橋が現役で橋として存在している場合で、新たにその橋の枠割を受け継いで架橋する場合は、橋名の頭に「新」とつけるのが一般的だ。この場合は「新明月橋」となるだろうか。
この現道の橋、今でこそ何の変哲もない現代の橋だが、その橋名にあえて「新」を付けずに「明月橋」の名前を受け継いでいるのだろう。

この銘板には明月橋が跨いでいる川の名前が記されていた。そこに記されていた名前は「勝木川」。そう、勝木川はこのあと上大鳥・下大鳥集落で国道7号旧道のすぐそばを流れて、あの勝木峠のふもとの勝木集落で海に出る川だ。ここでは勝木川はまだ川幅が狭く、水面まで手が届きそうなほど(実際に水面まで簡単に届くのだが)身近な川だ。この雰囲気は田舎で育った私としては、なんだか非常に懐かしく、川の流れは明月橋旧橋が架橋された当時と殆ど変わっていないだろう。どうかカミソリ土手などにはしてほしくない風景である。

現道の明月橋を渡っている途中で旧橋を眺めた一枚がこの画像。
このように周りの風景に溶け込んでいる橋と言うのは、そうないと思う。つたない私の経験からすれば、旧旧栗松沢橋や旧栗松沢橋辯當澤橋綱取橋に通じるものを感じたと言えば、それは言い過ぎだろうか。竣功年からすると、辯當澤橋が一番近いかもしれない。

調査編

さて、ここからは調査編である。
まずはこの橋がいつ竣功したのかということだが、橋の親柱に取り付けられていた石板で出来ていたであろう銘板は、竣功年月が記された部分が割れてしまっており確認することは出来なかった。そこで、まずはネット上で検索してみたところ、今(執筆時)から14年前の2006年に、WEBサイト「山さ行がねが」を主宰されておられるヨッキれん氏が現地を訪れており、この時の様子を「国道7号旧道 山北町大鳥地区」としてレポートされているが、この中にまだ健在だった竣功年月の銘板を確認された氏が「昭和十年五月竣功」と読み取っておられた(氏は当時から銘板の文字が掠れており、「昭和」の後ろの一文字は自信がないと書かれている)。このことから明月橋の竣功は1935年(昭和10年)5月と思われるのだが、これについてもう少し調べてみたところ、竣功年と思われる1935年(昭和10年)のころは、昭和恐慌が終わったとされる1933年(昭和8年)から2年後のことだ。昭和恐慌とは、1929年(昭和4年)10月にアメリカで発生して世界中を巻き込んだ世界恐慌の影響が日本にも及んで、1930年(昭和5年)から1931年(昭和6年)にかけて日本国内で発生した恐慌である。この昭和恐慌の時代には、景気回復のために国の財政支出によって土木事業が全国で盛んに行われていたころで、その一環として新潟県も昭和7年から9年の頃に橋梁架換が行われていたようだ。明月橋も、この頃に架け換えられたものだろうと思って更にいろいろ調べていると、新潟県立文書館のWEBにこんな画像を見つけた。

この画像は、提供資料として新潟県立文書館掲載許諾済。転載厳禁。

明月橋の記述があるっ!

これは1932年(昭和7年)新潟県発行の橋梁架換調書という文書だが、この中に明月橋の記述があり、上の画像の表中、右から6行目に「國道十号路線、岩船郡黒川俣村、明月橋、長さ35m、幅5m、総工費14000、昭和七年度14000」とある。1932年(昭和7年)に予算計上されて竣功が1935年(昭和10年)とは工期が少しかかりすぎのような気がするが、測量したり積雪で工事休止となったりすることを考えると、実際の工期は2年くらいだろうか。そうすると、竣功はやはり1935年(昭和10年)で間違いなさそうだ。そうすると2020年で84歳と言う、実に歴史ある橋ではないか。

次は現道の明月橋が三代目と言うこと。では、二代目の橋はどうだったのか。
これに関しては、平成21年3月に北陸地方整備局が編集した「道路事業の事後評価説明資料 国道7号 山北改良」や「羽越河川国道事務所(山北改良)再評価」中に詳しく記されていた。これによると、二代目明月橋の本線橋(車道部)は、昭和39年の新潟地震で被災した萬代橋の復旧に際して用いた仮橋を転用したもので、詳細な調査の結果「二代目明月橋は様々な箇所に老朽化と強度不足が見られるため、架替えが必要」とあり、架橋の時期に関しては「本線橋(車道部)は昭和39年の新潟地震で被災した万代橋(新潟市)の復旧に際して用いた仮橋を転用して昭和41年に完成、歩道橋は昭和56年に架橋した」と記述があることから、明月橋旧橋から2代目にバトンタッチしたのは1966年(昭和41年)ということが考えられる。
この頃は、村上以北の国道7号が線形など大掛かりな改修を受けた時期と重なっており、橋の架け替えもその一環と思われる。また、この中には二代目明月橋の画像があり、当時の姿を見ることが出来るので、ぜひご覧頂きたい。

さて、今度は現役当時の明月橋旧橋の画像である。これに関しても新潟県立文書館の承認を頂き、画像を掲載することが出来たので、早速御覧頂こう。これが開通当時と言うか、現役当時の明月橋旧橋の姿だ。非常に美しい姿を見せてくれて、正直に言うと感動した!。

この画像は、提供資料として新潟県立文書館掲載許諾済。転載厳禁。

これが当時の姿かっ!

貴重な竣功当時の姿を見ることが出来るこの画像は、まだ写真フィルムが普及する前にガラス乾板に焼き付けられたもので、写真や画像以前の時代に記録された、非常に貴重な画像である。今回、橋梁架換調書の画像と共に新潟県立文書館から正式な掲載許可を頂いて、ここに掲載することが出来た。
今の明月橋の姿と比較すると路面は砂利道で(当時は一級国道と言えども砂利道だった)、渡った先も平坦な道だし、今と違いを確認することが出来る、非常に貴重な画像だ。
この画像を眺めていると「この橋から眺める月がとても明るく見えるから、明月橋と名付けられた」そんな気がする。

同じアングルから撮影したのが、この画像だ。昔から見ると周囲の景色は違うものの、渡った先の道形などはほとんど同じ。親柱や欄干は傷んでいるものの、開通当初の雰囲気をよく残しているといえるだろう。今までよく残っていたものである。

蕗の薹を採取に行ったことがきっかけで見つけた、この明月橋旧橋。偶然見つけたにしては、結構「濃い」内容となった。それも一重に、この橋が今まで静かに時を重ねてきたことに他ならない。
快適に走れる現道の明月橋の脇で、それを見守るかのように今も静かに佇む「一級国道の橋」と言う往年の貫禄を今も残す旧橋。このまま朽ちていくには余りにも惜しいこの橋を、どんな形でもいいから保存されることを願って止まない。

一般国道7号 明月橋旧橋

完結。