一般国道113号旧道
辯當澤橋

2019年5月3日 探索 2019年10月15日 公開
2019年10月17日 一部修正

地図から抹消された道

私は個人的に弁当は好きだ。なぜかって?。それは、作ってくれた人の想いや家庭の味が、職場や学校などの出先でも味わうことが出来るから。この弁当と言う文化は日本ならではのものと、勝手に思っている。だから探索に向かう時でも実は弁当を持っていきたいのだが、気温の関係もあったり、折角の弁当が探索中に片方に寄ってしまったりと、なかなか思うように持っていけないのが現実だったりする。
なもんで、最近はキャンプ用のバーナーとフライパンにミートソースとパスタ、それに水を持参して、現地でナポリタンでも作ってしまおうかと画策していたりするのだが、作っているときの匂いに釣られてプーさんが寄ってきても困るし…などと思ったりして、なかなか実行に移せていない。
閑話休題。
今回ご紹介するこの橋は、これまで紹介してきた子子見片洞門や綱取橋と同じ日に探索したものだ。これまでの国道113号旧道は地図から抹消されている旧道ばかりだったが、今回の辯當澤橋は今でも国土地理院の地図にちゃんと記載されている。地図を見てみよう。

国土地理院の電子地形図(タイル)に注釈を追記して掲載

矢印で示した場所に小さく橋の記号が描かれているのが見えるだろうか。この橋につながる道が分岐する赤く表示された道は現道の国道113号で、地図左が小国町側になり、この橋で行き止まりの道は弁当沢トンネルを抜けるとすぐ左に分岐して橋で終わる。この先に水準点があることから、この水準点に向かう道とも考えられたが実は違っていて、今回私はこの行き止まりの道の方ではなく、反対側にある地図に記載されていない方から入った。上の地図の矢印で示した水準点の少し先の山側に崖の記号があるが、水準点からこの崖の記号までの間が不自然に等高線が広くなっているのがわかるだろうか。実はこの間に地図から抹消された道があり、それが113号の旧道なのだ。

ということで、今回はさっそく現地である。これは現道との分岐点から少し旧道に入ったところだ。分岐点は弁当沢トンネル坑口の少し手前で、これはすぐにわかると思う。このように旧道は昔の雰囲気もそのままに、地図から抹消されても、今もこうして残っている。この雰囲気は現役当時のままで、奥に見える左カーブの辺りも昔とそのままだろう。なお、路面は砂利が敷き直されており、きちんと管理されていることが伺える。どうやら何かの作業道として転用されているようだ。

路面を見ると、このような構造物があった。この旧道には何か埋設されているようで、これはその点検口か何かだろう。まだ埋設されてから(これが設置されてから)さほど時間は過ぎてないらしく真新しい感じがある。やはりこの旧道には人の手が入り、ちゃんと管理されているようだ。こうして旧道がどんな形でも転用されて管理され、今もその姿を残していることは嬉しいが、反面で旧道として何か物足りなさも感じたりする。

いくつか山側からの倒木があったりしたが、今は歩きだし、もともとが整備されている道なので簡単に越えられる。先に進んでいくと、なにやら雰囲気の良さそうな橋が見えてきた。低い高欄を見て「あの橋は旧そうだ」と直感した。現代の橋ではあのような低い高欄を持った橋はなく、遠くから見てもかなり古そうな橋であることが見て取れた。あの橋に早く会ってみたくて、つい歩む速度が速くなる。

旧道です!と主張する橋

おお!いいねぇ!

思った通り雰囲気満載の、いかにも「旧道です」と言わんばかりの橋じゃないか!。幅は現代の橋から比べると狭く、私が小さいころに走っていた、今の車より遥かに小さい車で対面通行できるかどうかと言ったところだ。今の車や大型車なら交互通行にしないと通れないだろう。…おや、右の親柱の脇に何か見える。近づいて確認してみよう。

あっ、これがこの付近で噂の!(←なってない)水準点!。最初に掲載した地図で「273.9」の数値が記載されていた、あの水準点だ。ということは、この水準点から橋を通って向こう側の道は今でもちゃんと道路法上の道路ということになる。水準点も見つけたし、今度はメインディッシュの橋へ行ってみようか。

まずは正面左の親柱から。親柱は(おそらく橋本体も)鉄筋コンクリート製だが、銘板は大理石に彫り込んである立派な銘板だ。流し込まれた墨が消えかかっていて画像だと文字の判別がしにくいが、現地で見ると立派に判読可能だった。この橋の名前は「辯當澤橋」。辯も當も澤もすべて旧字体で、貫禄があるというか歴史を感じさせる。

右側の親柱も傷んではいるし風化もしているが、左側ほどではない。橋名を記した左親柱の銘板と同様に大理石に文字が掘られ、墨が流し込まれていた銘板の文字は竣功年月で「昭和十六年七月竣功」とある。昭和十六年と言えば西暦で1941年。この年の7月にはアメリカが世界初のテレビ放送を開始し、この年の12月には太平洋戦争が勃発した年である。そんな中でこの橋が竣功したと思うと、なんだか感慨深い。

一旦橋を渡り、反対側から眺めてみた。私は向こう側に見える電柱の方向から旧道に入って来たことになる。やはり橋も道もそうだが、見る方向で全然違う顔を見せてくれるものだ。最初に向こう側から見た時には何だか寒々しい雰囲気だったが、今こうしてこの角度で見ると緑も見えて、橋に暖かさを感じる。上に見えている太陽の光のせいもあるだろうか。ここから見て左の高欄には電力線らしきものがまとめて固定されており、やはりこの道を管理しているのは電力会社のようだ。親柱はこちら側も傷んではいるが、向こう側よりはその形が比較的原型をとどめている。親柱の上に四角錐が乗っかり、重厚な趣だ。現役当時はさぞかし立派な橋だったことだろう。銘板を見てみよう。まずは左側から。

ひらがな書きで「べんとうさわはし」とある。同じひらがな表記でも今みたいにフォントの表記じゃなくて、これはおそらく手書きの文字だろう。こちらも大理石に彫り込んで、そこに墨を流し込む手法だったが、反対側の親柱の銘板よりは墨が残っており、判別しやすかった。またコンクリートに混ぜてある石が荒く、そういえばなんだかこんなお菓子があったことが思い浮かんだ(そのお菓子の名前は忘れた)。

こちらにも竣功年月が刻まれていた銘板。「昭和十六年七月竣功」とある。やはり、こちらの方がなぜか文字に流し込まれた墨が残っており、ちゃんと読み取れる。この道は1959年(昭和34年)1974年(昭和49年)に弁当沢トンネルが開通して旧道となった明沢川沿いの道と共に廃止となっているから、この橋は竣功してから34年しか使われなかったことになり、旧道として過ごしてきた時間の方が長いのだ。この辺はあとで旧版地形図と照らし合わせてみるとして、高欄を見てみる。

縦に規則的に柱が並び、その上を横につないでいるオーソドックス(?)な感じの高欄だ。これもおそらく鉄筋コンクリートだろう。このころ鉄筋コンクリートは日本に入ってきたばかりで、爆発的に普及が始まったころだった。先にも述べたが、この橋が竣功した1941年(昭和16年)は第二次世界大戦(太平洋戦争。大東和戦争とも言う)が勃発した年で、これを境に国内から鉄が不足していくことになる。
このため、これ以降に造られたコンクリート橋などは、鉄筋の代用として竹を使用した竹筋コンクリートで建造されたものもある。代表的なものは宮崎県の国鉄宮原線のコンクリートアーチ橋群だろうか。ここでは詳しい記述はしないが、だからこそこの橋は今でも残っているのかもしれない。
では、最後に地図を見てみよう。

役割を果たし続けている橋

大正二年測図 昭和六年要部修正測図 昭和十六年部分修正測図 昭和十八年三月 大日本帝国陸地測量部発行
5万分の1地形図 「手ノ子」を使用したものである。

この地図は1941年(昭和16年)に部分修正測図をしているので、その際に反映されたかどうかということもあるが、この地図は5万分の1なので、もしかすると小さすぎて地図に記号として反映できなかった可能性がある。この地図での辯當澤橋の位置は、中央にある米坂線が「弁当沢トンネル」に入った直後に横断する道がヘアピンカーブを描く地点だろうと考えられる。

1941年(昭和16年)にこの地に架けられ、1959年(昭和34年)1974年(昭和49年)に現在の道が開通して旧道化するまで、多くの人と荷物を運んだこの橋。綱取橋と同じように、今はこの橋を渡る人も少なくなったが、多くの人や車、荷が行き交ったであろう遥か昔を思い出しながら、今も「川を渡る」という橋の役割を果たし続けている、その橋は…

一般国道113号旧道
辯當澤橋

完結。