一般国道49号旧道
鳥井峠 第8部

2019年7月5日 探索・2019年8月12日 公開

さて、完結編である。
完結編とは言えどもこの峠道に関しての謎はさほどなく、あの鳥井峠の木標くらいなのだが、本当にあそこから峠道が始まっていたのか?。まずは旧版地形図を見てみることにした。

この地図は 1913年(大正2年)測図 1931年(昭和6年)要部修正測図
1934年(昭和9年)発行 5万分の1地形図 野澤 を使用したものである。

御覧のように、八ツ田の集落を出た直後に左に分かれる小径がある。これがおそらく私が通った道だろう。確かにこの道は「小径」と言えるほど道幅は狭く、軽自動車が一台通れるくらいの道幅しかなかった。私が通った道は入口付近でやや左にカーブしていたものの、すぐに真っすぐな道となり急勾配で先に進んでいた。第7部でも書いたが、この道はその昔、およそ荷車が荷物を積んで通行できる道ではないような気がしたのである。

それがこの道だ。画像ではわかりにくいかもしれないが、結構な急勾配である。道幅は小径と言えるほどの道。これがおそらく1934年(昭和9年)の地形図にあった道だろう。だが問題はこの道がどこへ向かっているかだ。地形図上では、この小径はこの先に現れる池の右側を通り、そのまま真っすぐ(一部等高線を無視して)斜面を登って先へ進むのだが…

この地図は 1913年(大正2年)測図 1931年(昭和6年)要部修正測図
1934年(昭和9年)発行 5万分の1地形図 野澤 を使用したものである。

おいおい、この片側の等高線の狭さと言ったら…これって崖の下にへばりつくような道じゃないのか?!。
しかもこの道、更に途中で等高線を直角に交差すると言うような、まるで勾配を無視するような登り方をして山頂の平場みたいなところに出てないか?。この道がどこを目指していたのかはわからないが…こりゃ車道じゃないと言うことだけはわかった気がする。もしかすると、今の旧道とは全然違う大迂回をしていたのだろうか?。

ちなみに、国道49号は(この頃は二級国道115号か?。いやいや、まだ「若松街道」の時代かも)鳥井峠を過ぎると、すぐに福取の集落を目指して進んでいる。この旧道は惣座峠までは今でもちゃんと残っているので、道の追跡は容易に出来る。やはり第7部で書いた通り、福取集落の周辺はその旧道の道端に一里塚が残っていることから、車道になる以前の道も、現在の旧道と呼ばれる道とほとんど変わらない場所を通っていたようだ。
また、このころの国道49号は福島県側から来ると、鳥井峠の直前も現在と全く違う道筋を通っていた。それはこの地図上の「宝川」から「白坂」までの部分だが、これは近日中に紹介する予定である(探索自体は終わっている)。この道も実は旧会津街道と国道が交差しているという非常に興味深い道で、更に他の峠の旧道につながっていると言う、非常に面白い道だった。

結局、あの木標が表す「鳥井峠」の意味は分からずじまいになってしまった。なんだか妙な消化不良感を残してしまったのだが、それはそれとして国道49号の旧道としての鳥井峠は今もある。それは、私が見た白看板であり、馬頭観音が雄弁に語っているから間違いない。それに・・・

この雰囲気の良い、非常に美しい道がすべてを物語っている。
路面に残るダブルトラックはともかく、周りの木々はおそらく当時と変わっていないだろうと思う。ここを様々な人が通り、それぞれの想いを胸に通った峠道。今も(ヤブ漕ぎなどせずに安心して)訪れることの出来る旧道としては、稀有な存在なのではないか。そんな気がする。昭和46年10月から旧道化した道は、私の人生と同い年の、およそ50年の時間を経て今もそこにある。これから先も、出来るだけ永くその姿を見せてくれることを心から願う。

一般国道49号旧道
鳥井峠

完結。

一般国道49号旧道
宝川白坂区間へ