一般国道49号旧道
鳥井峠 第5部

2019年7月5日 探索・2019年7月31日 公開

前回で、とうとう峠に到達した。結構長い道のりだったが、それなりに楽しめた道だったと思う。きちんと整備されている旧道だったので、やや物足りなかった感もあるが、それは贅沢と言うものだろう。
この画像は峠頂点のものだが、この左にはフェンスで囲まれた大きなアンテナがある。このアンテナはおそらく電話会社のものか何かと思うが、これもこの峠道が整備される理由の一つかもしれない。

白看を少し大きめに撮ってみた。支えている標識柱は赤く錆びてしまっているが、倒壊することはしばらくなさそうだ。実際に触って確認してみたが、それほどしっかりしていた。目的地と距離を示した左に見える色褪せた赤い矢印と、全体的に汚れて茶色くなっている看板が非常にいい。

峠を過ぎて白看を過ぎて撮影。右に入るように見える道があるが、これはアンテナの保守道ですぐにフェンスの前に行き着く。距離はさほどないが、アンテナが建っている場所が一段高い場所なので、入ってすぐに坂道になっている。さて、ここから新潟県東蒲原郡阿賀町になるはずだが…路面に草が見えるようになってきた。廃道にはなっていなさそうな雰囲気なので、行ってみよう。

路面にはちゃんとダブルトラックがある。下草こそやや繁茂しているものの、通行には一向に支障はない。また、右の路肩には電線も見えることから、峠にあったアンテナは新潟県側から電力の供給を受けているようだ。路面にやや草が茂ってきたことで否応なしに旧道の雰囲気が増してきて、気分も盛り上がる。

見事なダブルトラックが続く新潟県側の道。自転車で走っているが、走りにくいことは全くなく快走路。こういう道を走るのは実に気持ちがいい。おまけに旧道の雰囲気も満載なので、下り坂でスピードが出がちなのだが、そこは敢えてゆっくりと走ってみる。と、左側にある電柱のところまで来ると、路肩側に石碑のようなものがある。見てみよう!

馬頭観音じゃないか!

その前に、皆さんにお詫びがある。この馬頭観音の部分だけ、撮影日付が違う日付になっている。実は最初に訪れた2019年7月5日の時点で、この碑は見つけていた。しかし、見つけたことですっかり舞い上がってしまい、撮影するのをきれいさっぱり忘れていたのである。家に戻ってから撮影していないことに気づき、数日後にこの方面へ向かう用事があったため、その際に立ち寄って撮影した。ご容赦頂きたい。

さて(^^;
改めて見ると、なかなか立派な馬頭観音だ。これがあるということは、この道が旧来からの道で、かつ馬車や牛車が行き来していたということ。建造年などを掴むために、早速観察してみよう。

「施主 山口喜一郎」とある。ネット上で少し調べてみると、福島県のWEBの中で「北海道に足跡を残した福島県の人々」の中の「中野(小林)寅吉」氏の記述の中に、山口喜一郎氏の名前を見つけた。それによると…

(中野(小林)寅吉氏は)明治12年(1879)福島県大沼郡赤沢村(現、会津美里町)に生まれた。苦学して東京専門学校法律科(現、早稲田大学)を出て、北海道に渡る。その後、同郷の先輩山口喜一郎(当時「北海タイムス」の編集長)を通じて旧釧路新聞社社長の白石義郎(福島県出身)の知遇を得、明治40年(1907)9月に「小樽日報」の事務長として入社した<WEBより一部抜粋。<>内は筆者注釈>


ふむ。この中野氏の先輩の山口喜一郎氏がこの馬頭観音の施主の山口氏と言うことが考えられる。ただし、裏付けは取れていないので、正しいかどうかはわからないが。

建造年は明治三十九年(1906年)七月二十一日とある。ただ、右肩に「旧」とあるので旧暦だろうか。この日付は新暦だと、明治三十九年(1906年)九月九日(日)になる。また、旧暦の七月二十一日は六曜で言うと「先負」になり(他に大安や友引などがある、アレである)、この日は公事(訴訟など)や急用、争いごとなどを避けるのが良いとされ、午前中は特に悪く、午後は次第に良くなるという日らしい。と言うことは、この日付はやはり旧暦で、この碑の建立はこの日の午後に行われたのか?などと想像してみた。また、当時北海道で新聞社の編集長を務めていた山口喜一郎氏が、鳥井峠の馬頭観音をなぜ建立したのかは結局わからずじまいである。余談だが、このころの小樽日報には作家石川啄木も記者として在籍していた(その期間は4か月足らずだったようだが)。

いずれにしても、この碑は鳥井峠に存在する。時代は変われど、私もこの峠を通る身。この峠を通っている途中で命を落とした馬牛たちの冥福を祈って、深々とお辞儀をした。

現在でもしっかりとそこに存在する、この馬頭観音。よくよく考えると110年以上ここで峠を行きかう人々を見ていたのだろう。さっき見てきた白看板どころではない時間をここで過ごしてきたと思うと、畏怖の念すら覚える。この道が明治車道であったことがこれでハッキリした。今までどんな人々がこの峠を通っていたのだろうか、想像すると尽きない。

さぁ、新潟県側の集落、八ツ田へ降りていこう。距離的には、ここからさほどないはずである。

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