一般国道403号
大貝トンネル旧道
第7部

2022年7月24日 探索 2023年3月8日 公開

銘板に刻まれていたもの

まずは親柱の確認から見てみよう。欄干は改修されたものの、親柱は竣功当時からのもののようだ。ところどころにヒビが入って、そこから白華現象の白いカルシウムが流出しているのが見える。おそらくは銘板も架橋当時のものだろう。この年季が入った親柱に、現代風の真新しい欄干は些かいただけないが、これも橋が永らえるためと思えば致し方ないか。旧くは国道の橋として、今は旧道の橋として活躍していることが純粋に嬉しい。


ところで白華現象とはどういうものなのか。名月橋旧橋でのレポートを基に、一部修正を加えながら、ここで再掲することにしよう。

この白いものはコンクリート鍾乳石と言われるものだ。コンクリート中のセメントに含まれる石灰分が原因で起こるもので、白華現象(はっかげんしょう=エフロレッセンス)と呼ばれる現象の一種である。鍾乳石と聞くと、観光地の洞窟の天井から垂れ下がっている光景が思い浮かべられるが、その成長スピードは非常に遅いことをご存知の方も多いだろう。これは地下水に含まれるわずかな石灰分などを元に成長するからだが、コンクリート鍾乳石の場合は天然の洞窟環境で作られるよりも非常に早い。

この白華現象(はっかげんしょう=エフロレッセンス)とは、簡単に言うとコンクリート表面付近の石灰成分がコンクリートに染み込んだ水分などで溶けて表面に染み出し、水分が蒸発して石灰分だけが残ったり、空気中の二酸化炭素と反応して固まることによる。これらは以下の条件で区別される。

  • 1.コンクリート等が硬化する時に、内部から表面へ移動した余剰水により溶かされて析出したものは一次白華 (析出…せきしゅつ。溶液またはガスなどから固体が分離して出てくること)
  • 2.ひび割れや表面を伝う雨水・地下水等、外部の水により溶かされてできるものは二次白華

この白華現象は、コンクリートが固まる際の水分量の他にも様々な要因が関係して発生するものと考えられていて、例えば日光がコンクリートの表面に当たって乾湿の差が大きい南側には生じやすいとされていたり、気温が高い夏よりも、寒い冬の方が進行しやすいといった特徴がある。また、酸性雨が原因とされることもあるが、白華現象が起きる要因は多岐にわたるため、一概には言えないとされている。


反対側の親柱を見てみる。そこには竣功年月日の銘板がはめ込まれていた。そこにあった日付は…昭和二十八年十月。1953年と言うと…今から70年前(2023年現在)ではないか!。相当年季が入った橋だが、やっぱりここでも親柱と欄干の差が目立つなぁ…。それに、隣に掛かっている水道橋のトラス橋が気にかかるし、何より目立つんだ、このトラス橋(笑)。しかし今の目的はこの三桶橋。この橋を渡って三桶の集落に入っていこう。

渡っている途中で、橋から川を眺めてみる。これが三桶橋が渡っている渋海川(しぶみがわ)だ。この川は、この地域の付近の谷や河岸段丘の地形を作り上げてきた、言わば母なる川と言ってもいいだろう。この旧道が高田街道の裏往還だった頃は、ここに渡し船があったとの記録もある。その痕跡がないかと橋の上から目を凝らして辺りを見ていたが、それらしき跡はなさそうだ。長い年月の中で地形が変わったとは言え…この辺りのどこに渡し船があったんだろうか。なかなか想像に難しい。もっとも、夏草や木に阻まれて見えなくなっているかもしれず、確認するなら冬枯れに入る時期か、雪解け直後の方がよさそうだ。

三桶橋から渋海川の水面まで結構な高さがある。つい覗き込んでしまったが、相変わらず高いところが苦手な私は欄干から少し離れて周囲を見回していたことは言うまでもない。…え?だから見つからないんだろって?。まぁそう言わんと(笑)

ところで、橋の欄干に橋名の銘板が取り付けられていた。こんな取り付け方は現在の橋にはよく見られるが、このように欄干だけを改修した橋に取り付けられているのを見たのは初めてかもしれない。字体は味も素っ気もないフォント文字だが、もちろん無いよりはあった方がいい。大貝と三桶を二つの集落を結ぶ橋として、まだまだ現役で頑張りそうだ。

さて、親柱を見てみようか…と覗き込んでみると、そこに刻まれていた事柄に驚いた。銘板に刻まれていたのは橋長と幅員だったからだ。これまでレポートにした橋、しなかった橋いろいろあるが、そのほとんど(と言うか全部に近い)は、この位置の銘板には橋が属する道路名が刻まれているからだ。この橋のように橋長と幅員が刻まれているのは初めてで、少し戸惑った。

銘板によると、この三桶橋の橋長は二九米二一糎(センチ)、幅員四米五〇糎(センチ)とある。(行き違いですれ違うには少し狭いな、いやいや昔のクルマは小さくて幅も狭かったから、これでも十分な幅だったんだろうな)と銘板を見ながらあれこれ考えてしまった。きっと傍から見たら実にアヤシイ光景だったに違いない(笑)。

橋長と幅員が刻まれた銘板にひとしきり驚いたところで、今度は反対側の親柱を見てみる。そこにはひらがなで橋名の「みおけはし」の文字が刻まれていた。やっぱりフォント文字の銘板とは違って、字体に味があるな。親柱の形としては、標準的によく見るタイプ(と言うか、新潟県ではよく見るタイプなのかもしれないが)の四角いもので、昭和20年代のものとしては普遍的なものだろう。親柱の旧さと、奥に見える欄干の新しさのアンバランスさ。ちぐはぐさは否めない。この橋の欄干、本来はどんな欄干だったんだろう?。見たかったものだ。

さて、この旧道の探索も、あと少し。
次回、渡し舟もあった脇往還の宿場町へ。

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