新潟県一般県道550号
東谷塚野山線 未開通区間
第15部(完結編)

2022年9月17日 探索 2023年1月7日 公開

深い森の先に見える街

綺麗に刈り込まれた路盤が復活!。歩きやすく整えられた路盤の向こうには塚野山集落の姿と、その周囲に広がる田園風景が見え隠れしている。距離的にはさほど長くなく、小さい山越えの未成道なので探索もすぐに終わるかと思われたが、フタを開けてみればなかなか楽しい探索となった。この道の塚野山側がどうなっているか。東谷側のように「…もしかして、これ?」と思わせてくれるような未成道への入口なら、実に楽しいんだけどな。

先へ進むと、このようにいきなり視界が開ける。この道に入る前に見た初秋の抜けるような青空と、路肩にはこの道で随分お世話になったスノーポールの姿が見える。思えば、この道で見たスノーポールはそのすべてがこのように短くて、このポールを本来の目的で使うなら、この高さだと30cm程度しか測れない。もちろんここは日本で有数の豪雪地帯、積雪時にこんな高さはあっと言う間に埋もれてしまうから、やっぱりこれは標柱の代わりだろうと思ったら!。

おおっ!標柱があった!

苔生したその姿をして半ば地中に埋もれながらもなお、この路盤が県道であることを表し続ける、私にとっての「道標」。その正面に深く刻まれた「新潟県」の文字は、探索中にどれだけ助けられたことであろうかっ!・・・と、気合いを入れて語るもんでもないが、助けられたのは事実だ。
なるほど、このポールは標柱の代わりもするが「ここに標柱があるよ」と言うことを知らせる意味もあったんだな。平地に設置してあるものだと、人為的に抜かない限りはおよそその場所に残っているものだが、山の中だと枯葉が積もり腐葉土になって、また枯葉が積もり・・・そんなことを繰り返して、積年の間に埋もれてしまった標柱もあるのかもしれない。


県道550号東谷塚野山線 1550-006 新潟県オープンデータ利用規約クリエイティブ・コモンズ・ライセンス 表示 4.0国際

更に先へ進むと、急な下り勾配と急カーブで一気に降りようとするが、この勾配とカーブの曲線率は並大抵じゃない!と思って道路台帳を見てみたら、半径2メートルのカーブに加えて下り勾配16%と、なかなかのアグレッシブさで下ってるじゃないか(笑)。
これが最後のカーブ!。これを降りてしまえば…!。

おおっ!塚野山側に出たぞ!。完抜達成だ。アスファルトの道路に戻る最後まで急勾配だったな。探索としてのゴールはもう目の前で、辺りには田圃が広がるのどかな風景の一角に出た。でも、ここが県道の終点じゃない。ここから更に塚野山集落を目指して進んでいるはずだが、目の前は三差路になっている。さて、どっちだろう?。ま、ひとまず降りるか。

未開通ではない県道の路面に降り立ち、改めて未開通区間の入口を眺めてみる。探索を始めた東谷側よりは幾分マシなものの、まさか山の中に入っていくこの道が県道だとは、パッと見ただけでは思いもよらないだろう。

実は私がここに出てきたときに、たまたま軽トラで農家の男性が通りかかったのだが、山の中に突っ込んでいる作業道とも見える道から私がいきなり出てきたもんだから驚かれておられた。いや、申し訳ない。頭にヘルメット被ってカメラを首から下げた、いかにも怪しいヤツがこんなところから突然出てきたら、そりゃ驚くわな。

ところで県道は左だ。ここでおよそ180度方向を変えて塚野山集落へ向かっている。上の画像を見て、何かお気づきにならないだろうか。・・・!。そう、こんなところで(平地なのに)道形が既につづら折りになっている。それに、その先の勾配は16%の急勾配。こうして眺めて見ると、改めて感じる。「いやぁ、あんなところ通ってきたんだ」と(笑)。

これは山の中から平地に降りてきて、そのまま塚野山方向に県道を辿ったものだ。右側の路肩に素敵なものが立っていて、またその文面が痺れる。

冬期間通行止
この先積雪時は通行できません
長岡地域振興局

…途中からは、積雪時でなくても通行できなくなるぞ(笑)

正面から左の山が、私がついさっきまで県道を辿っていた山だ。決して大きくはない山だが、針葉樹だけではなく様々な木々があって里山の風景を見せてくれる、実に楽しい山だった。この後、私は東谷側に停めてあるクルマに戻り、帰路についた。


さて、ここからは調査編。
お馴染みになった新潟県立図書館で越路町史などをひっくり返してみたが、この道に関する記述は見当たらず、塚野山歴史の会と言う団体が出版した「塚野山の歴史」なる本があったので紐解いてみたが、まずはその前に地図を見てみよう。1枚目は1934年(昭和9年)、2枚目は2023年(令和5年)の地図である。


1枚目・・・1911年(明治44年)測図 1931年(昭和6年)修正測図
1934年(昭和9年)4月30日 大日本帝国陸地測量部発行
5万分の1地形図 柏崎 を使用。
2枚目・・・国土地理院の電子地形図(タイル)を使用。


まずは1枚目、真ん中に見える塚野山集落。そこから右に視線をずらしていくと、山の中に194.3の標高点が見えるのにお気づきだろうか。その道は山宿と言う集落に行き着き、そこから左に折れて渋海川方向へ上り、東谷の集落に行きついている。この道を覚えておいていただきたい。

カーソルを合わせると2枚目にチェンジするが、塚野山集落から右に伸びる、黄色で着色された道。これが今回探索した550号東谷塚野山線なのだが、この道にも途中に194.3の標高点が見える。それぞれ縮尺が微妙に違うことや測量技術の違いもあって、89年の間に標高点が移動した可能性もあるが、おそらく1934年(昭和9年)の地図にあった道と同じだろう。
今は県道550号になっているこの道は、やはり古き昔から東谷と塚野山(正確には山宿と塚野山)を結んでいたようだ。

では、この道はどういった性格のものなのか。先述した「塚野山の歴史」を参考に一部を引用する形で考えてみよう。この道を考えるにあたって、これを抜きにしては考えられない街道がある。その街道は「魚沼街道」。別名「柏崎街道」とも言われたこの道は、公用路として村々を結ぶ道であり、村々の作業道を兼ねた生活道路でもあった。ここは早速魚沼街道の話に行きたいところだが、その前に当時の街道の仕組みについて少し触れておくことにしよう。

話は江戸時代に遡る。江戸幕府は江戸を中心に、主たる街道を5つ設けたが、これは五街道と呼ばれた。この五街道は江戸・日本橋を起点に東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道のことで、徳川家康が全国支配のために1601年(慶長6年)に整備し始めたものだ。それと合わせて更にそれに準ずる脇往還(脇街道)も定めたが、その主なものとして伊勢路、水戸街道、北国街道、羽州街道、三国街道、佐渡路、中国路、長崎路などがあった。そして、更にそれを結んで補助的な役割を持つ街道を設けた。

こんなのを聞いているとなにやら難しそうだが、要は今の「国道」「主要地方道」「一般県道」みたいな関係だったのかもしれない。で、この補助的な役割の街道(今の一般県道?)の中に柏崎道と言う道があり、これが別名「魚沼街道」と言われる道だ。
この魚沼街道は小千谷から三国街道と別れ、薬師峠を通り千谷沢村(ちやざわむら)から塚野山に下りて現在は国道404号となっている道に合流、塚野山の集落をしばらく進むと渋海川を渡し船で渡り、そこから更に山越えで柏崎へ向かうルートが魚沼街道と呼ばれていた(本当はもっと複雑なルートを辿るが、それではこの県道の話から逸れてしまうので割愛した。ご了承頂きたい)。


余談だが、2020年12月に残念ながら亡くなられた落語家の林家こん平師匠が「笑点」に出演された際に度々登場していた「チャーザー村」は、こん平師匠の故郷であるこの新潟県刈羽郡千谷沢村のことである。


この街道は江戸時代には小千谷の生活圏内で、魚沼地域に柏崎の海の幸や山の幸を運ぶ生活道路であったことから、魚沼の名前を付けられた街道名で呼ばれるようになった。塚野山はその中で人足や馬を常備するよう義務付けられるほどの重要な宿場町であったらしい。対して、東山側の集落である山宿は、明治初年頃は近くの池の平、阿蔵平、荒瀬の3つの字(あざ)と共に「荒瀬村」として独立していて、山宿以外の他の字は山宿の庄屋の五十嵐家の支配下にあったとの記述があることから、荒瀬村の中心的な字は山宿であったと考えられる。

この550号の道筋は、その塚野山と山宿を結ぶ生活道路ではなかったか。
地図を見るとわかるが、この道がないと塚野山から山宿に行くためには塚野山から荒瀬を回り、東谷を通って山宿と大迂回をしなければならない。これをショートカットするために現在の550号の道筋が出来たと考えると納得がいく。この結果、この道は車道ではないものの、より多くの人たちが出来るだけ短い時間で塚野山集落に出れる道、また魚沼街道に出れる道であるために整備され続け、それがやがて県道に昇格した。
もちろん、この考えに確証はない。だけど、こう考えるのが一番わかりやすいと思う。

過去から現在まで残る道は、今でも存在し続けることに何か理由がある。
それらの理由を文献などから探し出すことは、探索することと同じくらい大切なことだと思う。
それを教えてくれた道でもあった。

本文参考資料・引用・・・塚野山の歴史,塚野山歴史の会,玄文社,2016

新潟県一般県道550号
東谷塚野山線 未開通区間

完結。