一般国道345号
笹川流れ狭路隧道群
第7部 完結編

2018年11月25日・2018年12月23日 探索

※今回は画像はなく、文字主体です。お付き合い願えれば幸いです。

さて、完結編である。ここでは国道345号の歴史を紐解いてみたい。
とにかく、この笹川流れの昔の交通事情は現代の道路事情から考えると、それはそれは凄まじいものだった。
何しろ近代の1970年台半ばになっても、幅員が1.5m程度で小型車の通行もできないくらいの非常に細い道が集落の中を通り、しかも、この道が後に新潟県道村上温海線に指定されることになるのである。
じゃあ、近代ではなくもっと昔の交通事情はどうだったのか。この辺は山北町史に記述があるので引用したい。

当時、鵜泊などの海浜一帯は交通の便が非常に悪く、ほとんど途絶の状態であった。
それは山脈の支脈が東西に走り、丘陵がすぐに海に迫るところは断崖絶壁で、赤褐色をした噴出岩が噴出岩が荒々しく岩肌を露出していた。そして磯辺には奇岩・怪岩が天を突き刺すように並び、その足元にはゴロゴロした巨岩が限りなく横たわり、人の通行もできない険阻な地であった。したがって、磯づたいの隣村芦谷との交通さえ、多くは舟を利用するか、あるいはまた「相の山越」と称する難所を通るよりほかになかった。
(山北町史 通史編 P447 から引用)


いったいどんなところだったんだと思いたくもなるが、この当時(おそらく明治時代の前半と思われる)は、山側の道は「相の山越」、海側の道と言えば海岸の狭い「ヘツリ道」と呼ばれる非常に狭い道しかなかった。この非常に不便な山越えの道しかなかった場所に、「タカヘツリ」と呼ばれる道を通した人物がいる。その名は菅原次郎吉。鵜泊村の生家は代々船頭を生業としていて、その家に彼は1839年(天保8年)2月2日に生を受ける。やがて立派な若者に成長した次郎吉も家業を継いで船頭として精進し、荒波の日本海を乗り切っては新潟港に回航したり、北海道まで航海して物資輸送に従事していた。記録では、北海道に幾度か航海するうちに牧畜に適していることに気づき、函館で土地を求めて牧畜も営んだようである。

ところで、冒頭の山北町史の引用のように、当時の鵜泊村の一帯は非常に交通の便が非常に悪く、鵜泊村の周辺は山脈が東西に迫り、その丘陵が海に迫るところは断崖絶壁、海岸にはゴロゴロと巨岩が転がっていて、とても人が通行できるような状態ではなく、隣村の芦谷との行き来でさえ船を利用するか、山越えの「相の山越」と呼ばれる難所を通行するしかなかった。次郎吉はこの故郷の不便を日頃から痛感しており、この難所を見るにつけ何とかしたいと考えていた。そして、岩山の険しい場所に安全に通れる道を作るには困難を極めることが予想されたにも拘わらず、次郎吉はついに決意する。

「人々が安心して通れる道を造る」

次郎吉は、すぐに土木作業員を集めて工事に着手する。時は1896年(明治29年)8月のことだった。
以来、次郎吉は私財を投じて、自ら現場監督も務め、着工からおよそ1年が経過した1897年(明治30年)6月、とうとう海浜道が完成する。この道は高さ20mの断崖絶壁の岩肌の場所に、巾60センチ程度の非常に狭い道だったが、それでも相の山越やヘツリ道よりは安全と、大いに活用されることになった。これが現在の国道345号の原型になっている。この菅原治郎吉の偉業は、以来永く鵜泊集落の人々に語り継がれ、現在も「鵜泊沢」と呼ばれる地には、次郎吉の偉業をたたえた「開道記念碑」がある。

次郎吉が作り上げた海浜道は、戦後に新潟県道村上温海線として指定されて、改良されることになる。岩肌を削る難工事の末に開通した道や、隣の寝屋集落へ向かう幅員1.5mの狭い道を拡幅するための工事だった。ところが、当時の新潟県は赤字財政であり、道路改良事業にかけられる予算も殆どない状況。おまけに当時の北村新潟県知事は赤字退治の鬼と呼ばれる人物で、道路への予算はなかなか取れない状況だった。ここで尽力したのが府屋出身の富樫又太郎と言う新潟県議。彼は一計を案じ、北村知事と共に当時の防衛庁と折衝して「演習」と言う形で自衛隊の協力を得て県道改良工事を行うことで決定、着手に成功した。

この工事演習を担当したのが愛知県豊川に駐在していた、陸上自衛隊第103建設大隊の隊員150名。
彼らは作業用重機材を国鉄羽越本線の寝屋隧道と鵜泊隧道の間に仮設ホームを作り、そこから現地に搬入した。そして中学校の体育館を宿舎、小学校の一室を事務所にして1956年(昭和31年)6月30日に着工。岩盤の切り崩しや爆薬による爆破作業、爆破後の岩石を海に押し出す、当時は建設機械として非常に珍かったブルドーザを駆使して、工事日数わずか57日間、爆薬1700キロ(1.7トン)余りを使って幅員5m、長さ420mの道を鵜泊地内に開通させ、同年8月25日に無事故で竣功を迎える。工事にあたった150名の隊員は、鵜泊集落の方々から非常に感謝されつつ、同年8月29日に撤収した。

このあと、新潟県道村上温海線は全線に渡り改良工事が続けられることになるが、1964年(昭和39年)には国鉄羽越本線の越後寒川駅から勝木駅間の複線化トンネル工事に伴い、鉄道沿いにあった細道と、複線化工事で廃止となった鉄道の旧路盤を使って改良工事を行い、自衛隊が工事を行った鵜泊地内の道に接続された。この時に開通した道路が、現在の「芦谷スノーシェッド」付近の道である。
この芦谷付近は1986年(昭和61年)から現在まで上記の工事を含めて「芦谷改良」として工事が続けられていたが、その途中で一般国道345号の指定を挟み、最終工区の新鵜泊トンネルが2018年(平成30年)7月18日に開通。芦谷から鵜泊に至る芦谷改良の工事区間、延長1600mの全線が完成した。
その工期は32年にも渡る、一大事業だった。

また、今回取り上げなかった隧道(寝屋・松陰第一・蓬莱第一・蓬莱第二・宝谷・根込・神宮沢第一・神宮沢第二・神宮沢第三・炭沢・アカタビラ・カタガリ松・滝の尻・ニタ子間・塩置場)も、既存の隧道を改修、または再掘削して開通させたものである。そしてそのすべての隧道が明治から大正生まれの古豪の隧道ばかりだった。

江戸時代に竣功し、現在も残る土木遺産級の大正浦隧道が竣功してから160年。
菅原治郎吉が1896年(明治29年)8月に「人々が安心して通れる道を作る」と決意してから、およそ123年。
一世紀以上の長きに渡って続いた外海府の道の改良工事は、2018年(平成30年)7月にやっと終わりを迎える。

最後に、もう一度これを引用して終わりとしたい。

かつて、下海府村の寒川地内松陰隧道から浜新保までの間には、大小合わせて十八の隧道があった。
いずれも手掘りで、高さが一・五メートルから一・八メートル、幅が一・三メートルくらいのもので、路面には水たまりが無数にあり、曲がりも多く、昼でも灯火が必要であった。そんな場所を三十センチメートルくらいの棒を片手にしながら通行していた。(山北村史 通史編712ページから一部引用)


160年も続いた外海府の海岸沿いの道は、ようやく安心して通れる道になった。
先人たちが開通させた道の中には、今では廃道になっているものもあるだろう。しかし、そうした道があったからこそ、この隧道群があり、現在の国道345号があり、日本でも有数の景勝地の笹川流れに訪れることが出来る。

画像はアジリキ隧道

外海府の道を繋ぐために。下海府と上海府を繋ぐために。それぞれの集落を繋ぐために。
そのために大小18本もの隧道を掘った、決して歴史に出て来ることのない名もなき先人たちに、改めて感謝の思いと敬意を表すとともに、その昔、孤立していた沿岸の集落を繋ぐために掘られ、結ばれ、数多くの人の手に守られながら、今もなお活躍する隧道と道路に、改めて心から拍手を送りたい。

人が道を通し、道が人を通す。
そこには決して表に出ることのない
数多くの隠れた物語がある

一般国道345号
笹川流れ狭路隧道群

完結。

※本文参考資料 山北町史 通史編