一般国道345号
笹川流れ挟路隧道群

第2部 天王沢隧道

2018年11月25日 探索・2018年12月13日 公開
2019年9月10日 加筆訂正

前回のヒトハネ隧道から現道の国道345号を更に北上して板貝の集落を抜けると、やがて弘法トンネルが見えてくる。まずは地図を見てみよう。

国土地理院の電子地形図(タイル)を掲載

これは現在の地形図である。中央に71.5の水準点があり、その右側にトンネルの記号が見えるが、これが現在の弘法トンネルである。では、続いて1934年(昭和9年)の地形図。

この地図は、国土地理院発行の5万分1地形図 大正2年測図
昭和9年修正測図 笹川を使用したものである

同じ位置の1934年(昭和9年)の地形図である。ここに矢印で示した通り隧道があるが、一本の隧道として描かれているように見えるし、実際もそう描かれているだろうが、これはおそらく地図の誤記だと思う。

国土地理院の電子地形図(タイル)を掲載

現在の地図をもう一度見てみると、今川側のトンネルの入口手前から左に、崖の記号が描かれている。この崖の記号の正体は、旧道が海沿いを走っていた頃の道路の路盤の名残で、現在の地図と1934年(昭和9年)の道路の位置を見比べると、旧道の道の記述が消えて崖の記号に変わっただけで、線形は当時と変わらないことに気づいて頂けるかと思う。なので、この時代から、ここに2本の隧道があったと考えた。
この二本の隧道は板貝側が天王沢隧道、今川側がアジリキ隧道と言う。今回は、板貝側にある天王沢隧道が主人公である。ちなみに、アジリキ隧道の「アジリキ」と言う名前は、この2本の隧道が貫いている小さい岬を「アジリキ崎」と言うところからきている(文献によっては「アジアキ崎」と記されているものもある)。じゃあ天王沢は?と言うと、この時点ではわからなかった。
では、事前調査はこのくらいにして、現地に行ってみよう!

国道345号を村上側から走って来ると、この弘法トンネルの左に「いかにも」といった感じで手掘りの隧道が見えている。この「おーいここ、ここ。おれ、ここにいっから」と(言ってるがどうかはわからないが)、しっかり自己主張している隧道が、これから探索する天王沢隧道である。

振り返ると、このような素晴らしい景色が眼前に広がる。いかにも「笹川流れ」と言うような景色ではないか。今は広々とした道が海岸線を走っているが、昭和9年当時は点線であったり実線であったりするが、細い道が続く県道だった。この道の当時の状況に想いを馳せつつ、いよいよ天王沢隧道へ向かうことにしよう。なお、今回の探索はチャリンコは乗らずに、すべて徒歩である。

弘法トンネルの脇から入ると、もう目の前が天王沢隧道である。この海岸沿いの頼りなげな道が、かつての新潟県一般県道村上温海線の名残である。ここからこうして天王沢隧道が掘られた場所を俯瞰的に見ると、素人目には岩山の良いところに穴をあけたなと言う気がする。ここで何気なく横を見ると…

おっ!弘法トンネルの銘板が見えた!。竣功は1983年3月とある。天王沢隧道が現役を退いたのは、この日付だろう。じゃあ天王沢隧道が出来たのはいつなのか?。この辺は後で調査することにして、まずは天王沢隧道へ。

近づいてみると、あまり役に立たなくなったA型バリケードで封鎖されていたであろう隧道の脇に、お地蔵様が祀られてある。すぐそばには海岸線に降りる階段もあった。この海岸線に降りる階段は、この県道が出来る以前の「ヘツリ道」と呼ばれる、海岸の岩場を削って作った徒歩道に繋がっているようだ。このお地蔵様に多くの人たちが祈りを捧げ、お地蔵様も多くの旅人を見守ってきたことと思う。
私もこれからこの隧道を通行する身、手を合わせ頭を下げてお祈りした。

天王沢隧道を前にして正面に立つと、隧道から吹くひときわ涼しい風が私の頬をなでる。その風はかび臭い匂いでもなく、冬の直前というのに重い撮影機材を抱えて少し汗ばんだ身体には、乾燥した心地よい風だった。
しかし、ここもかつては閉鎖されていたのだろう。隧道の入口の周りには隧道の支保工と、それに固定されたであろう柵の残骸が残っている。乾燥した風から予想はしていたが、案の定洞内は結構乾燥していて、少し補強・修正するか、コンクリートの吹き付けを行えば、歩道用としてまだまだ十分使えそうな気がする。

一歩足を踏み入れると、この通り。どうだろう?いい感じの素掘りの隧道じゃないか!。それに、ビンビンと感じられる、この隧道の歴史の重み。後年に改修されたのかもしれないが、この姿自体は竣功当時のままだと思う。この姿を一言で表現するのは失礼かもしれないが…「美しい」。この場所に立って、本当にそう思った。
なお、見ての通り通行するにも路面は一切支障なく、非常に快適な通行であった。

振り返って入口方向を見てみる。坑口の支保工の姿がわかっていただけるだろうか。いかがだろう。この天王沢隧道の、今でも十分に通用するほどの隧道内の広さと、それに対して崩落一つないことに驚いた。隧道内も乾燥しており、路面に石一つ転がってない。掘られた地盤がよほど固いのだろう。この場所を選んだ先人の眼に尊敬する。そんなことを感じながら前方を見ると…

壊れた支保工の残骸の先に、アジリキ隧道が見える!。この2本の隧道は非常に近く、このくらいしか離れていない。1934年(昭和9年)の地形図が誤って1本としてしまったのも、この近さが原因だろうか。また、こちら側も坑口に支保工と柵があったようだが、それらは壊れてしまっていた。

天王沢隧道を出て、アジリキ隧道へ向かう途中で振り返ってみた。すると、坑口の左側に小さい滝がある。もしかしてこれが天王沢だろうか?この沢(というか滝?)は見かけは細いが流れは絶えずあり、結構な水量があるように見えた。そして隧道の坑口は、御覧のように見事に硬い岩の中心を貫くように掘られている。これがもし手掘りの隧道なら、この岩を貫くのはかなりの時間がかかったことだろう。しかし、この隧道が完成したことによって、ここを通る人たちは海の波が高い時でも危険なヘツリ道を歩くことなく安全に通行出来るようになった。その安心感を想像すると、やはり道はその地域の発展を担っているものだなぁと思う。

沢の下まで行くと、これはおそらくガードレールだろうか。道路施設の残骸があった。もうすっかり土に埋もれてしまっているが、かろうじて頭を出している。通行が途絶えてから長い年月の間に重なった枯草や、やはり上から崩れてきたのか、多少の土砂で埋まったりしている。ここが県道だった当時は、ここに駐車スペースや行き違いの退避場所があったのかもしれない。この天王沢隧道と次のアジリキ隧道に挟まれた区間は天然の明り取り区間のようになっており、当時はここから笹川流れの風光明媚な景色が見れたはずだが、今回訪れた際は枯草の背が高く茂っており、残念ながら眺めることが出来なかった。この隧道がいつ掘られたのかは調査編で明らかにしていくことにして、まずは目の前のもう一本の隧道を目指すことにしよう!。

いざ、アジリキ隧道へ!

第3部 アジリキ隧道へ