一般国道345号
笹川流れ挟路隧道群

第5部
松陰第二隧道・松陰第三隧道

2018年12月23日 探索・2019年1月4日 公開

前回、天王沢隧道とアジリキ隧道を探索した私は、この2本の隧道の探索を終えると、そのまま北上した。次に探索する隧道が、今回改めてこの笹川流れの隧道群を探索するきっかけになった隧道である。
皆さんは、冒頭でのこの部分を覚えているだろうか。


それは第一がありながら、この後に続くはずの第二、第三がないという不思議な隧道。
しかも、私は実際に現地を(おそらくだが)通過している。
これに気づいたときに「しまった!」と言う思いと共に、私の頭の中のもう一人の声が響いた。


そう。この隧道が、まさしく今回の隧道である。まずはおなじみ地形図を見てみよう。

国土地理院の電子地形図(タイル)に注釈と矢印を追記して掲載

地図上に注釈を加えたが、松陰第一隧道の位置はここである。これより脇川側に第二隧道と第三隧道があるはず。まずは現役バリバリの松陰第一隧道から追跡することにしよう。

これは松陰第一隧道。脇川側から撮影した。後述するが、今はこんなに立派になっている松陰第一隧道も、竣功当初は素掘りの狭い隧道だった。この隧道は普通に国道345号を通行していると遭遇するが、探しているお目当ての第二・第三隧道はどこだろう?と、さっそく捜索に入ろうとして、飲み物が底をついてきたことに気づいた。この辺で少し休憩。この隧道の手前にあった笹川流れの塩屋さんで休憩することにして立ち寄り、お店で美味しい天然の塩と、自販機でお茶を購入。一本は飲み干してもう一本購入し、一息ついたところで「さ~て隧道はどこだ?」とあたりを見回した。

これは、その塩屋さんの駐車場から、松陰第一隧道側(勝木側)を見たところである。
ふーむ…それらしきものはないなぁ…と頭を掻きながらつぶやいて振り返ると…

おい(汗)

この画像は、実際には駐車場から発見して慌てて道路を渡り撮影した画像だが、状況的にはそう大して変わらない。探している隧道は、道端に「しれっと」いた。この隧道は村上側から来ると、ほとんどわからない。勝木側から来ると左を見ればわかるのだが、対岸にある塩屋さんに目を奪われるために、気づかないのである!(←言い訳)。本当はこのまま隧道に入っていきたいところだが、塩屋さんに車を置きっぱなしにするわけにもいかないので、この手前にある左側の空き地に車を停め、探索に入ることにした。この隧道は松陰第一隧道から始まって第二隧道、第三隧道と並んでいることはわかっていたので、今見ているこの隧道が松陰第二隧道のはず。
いよいよ(自分が勝手に)見落とした隧道の探索が始まる!。

松陰第二隧道の勝木側坑口である。手前は枯草の山。この時期の草は冬枯れで少なくなっているだろうから、まだこれだけで済んでいるが、これが夏となれば夏草が茂り、隠れて見えなかっただろう(←自己弁護)。近づいて詳しく確認してみよう。

これが松陰第二隧道である。現道のすぐ脇に、草に埋もれながら現存している。坑口に飾りは何もなく、単純に岩山をぶち抜いたと言う感じの隧道で、昔は現在の道がある場所は岩山だっただろうから、そこを通るためにこの隧道が掘られたのだろう。もしかしたら最初は素掘だったのかも知れない。ただ、坑口の左側と右側での見え方の違いが多少気になる。これは第三隧道を探索した後に戻って、再度詳しく調べてみよう。

入洞すると、御覧のように内部は今でもしっかりとしている。内壁等に水漏れはないようで、コンクリの剥がれなども少なく、この当時の隧道からすると比較的きれいである。出口側は意図的に土盛りされたようで半閉塞しているが、このような閉塞は序の口(笑)。
その意図的な土盛りのおかげで隧道内に雨水と思しき水が溜まっているが、右側の木材が置いてある部分を通って通ることが出来た。しかし、隧道の幅はやはり狭い。オート三輪が2台並べるか?と言ったところだろう。

半閉塞を乗り越えて、松陰第二隧道側坑口である。出て振り返って撮影した。
勝木側の坑口とは違い、この脇川側の坑口にはなかなか見事な石組みがされているものの、扁額がないのはやや寂しい気もする。さて、このまま進めば松陰第三隧道のはずだが…

あったあった♪おぉ、これが松陰第三隧道か!画像がやや白トビしてしまっているが、ご容赦頂きたい。坑口は第二隧道とは違って、コンクリートで坑門やそのほかの意匠も作られてはいるが、なぜか扁額はない。…ん?隧道の奥が、なんだか変だぞ?。

え~と…何だこりゃ(笑)
隧道の半分がコンクリートで履工されているが、半分は素掘りのままである。こんな隧道は初めて見た。中にあるでっかい石が気になるが、落石の際に中に入ってしまったのだろうか?。しかし…やはり変な隧道。こう見ても途中から急に細くなってしまっていて、これでは交通の障害が大有りだったろうに、なぜこんな変な形で竣功したのか、理解に苦しむ。

え~と(笑)

隧道内で急に狭くなってるって、どういうことやねん!と現地で思いっきりツッコミを入れてしまった。自分の声が隧道内に響く。毎度のことながら、ハタから見れば非常にアヤシイやつである。本当に途中から素掘り(一応、吹き付けコンクリートで補強されてはいる)になって狭くなってるし…しかも、何だろう?。この履工された部分の幅と、されてない部分の幅の「差」は。
洞内は現在も人の出入りが多少あるのか、資材等の置き場になっているようにも見える。このまま行くと、なかなか歩きにくそうだ。先に進んでみると…

出口に柵がされていたのだろうが、倒壊してしまい、役に立たなくなってしまっている。この上を通るのはいささか気が引けたが、通らないと外に出れないので通ってみる。
こういうところは、釘の踏み抜きに注意しなくてはならない。靴底などは場合によっては簡単に突き抜けてしまうし、足裏に刺さろうものなら破傷風の危険もあるので、注意が必要だ。

なるほど、ここに出るのね。
ここは勝木側から来ると脇川集落の直前にあたり、国道345号の現道と旧道の分岐点にあたる。現道は脇川大橋で海側を一直線に超えているが、旧道は脇川集落の中を通っていた。この脇川集落の中を通る旧道は非常に狭く、おそらくここも(と言うか、345号の旧道で各集落の中を通る部分の道は、どこも非常に狭かった)交通のネックになっていたことだろう。

松陰第三隧道を出て、振り返って撮影した。
勝木側の坑口は、いかにも隧道と言う感じだったのに対し、この脇川側の坑口はどう見ても天王沢隧道のそれと近い。しかしこの隧道、竣功は1953年(昭和28年)3月になっている。この年代に素掘り?と言う気もするが…

松陰第三隧道から出て、旧道を眺めてみた。左側の擁壁は、松陰第三隧道から滑らかに続く自然な線を描いて、脇川集落の中を走る旧道に流れ込んでいる。この付近は画像の通り道幅は広いが、集落に入ると非常に狭くなる。このあと、脇川集落の旧道の様子を撮影しようと一瞬思ったが、この画像を撮影したころは夕刻で人通りも多く、地元の方々の感情を考え撮影は控えたので、ご了承頂きたい。
それでは、松陰第二隧道の勝木側坑口を再度確認してみよう。

現道から松陰第二隧道の坑口を改めて眺めて見て、初めてわかった。これは現道を松陰第二隧道の右側に作る際に、おそらく一部が歩道の予定地にかかってしまったのだろう。スパンドレルやパラペットの道路側が半分壊されている。でなければ、こんな不自然な形にはならないと思う。隧道本体が壊されなかっただけでも、良しとするべきか…
これで私は松陰第二隧道・松陰第三隧道の探索を終えて、次の隧道に向かった。


さて、ここからは調査編である。新潟県土木部道路課が発行した「道路概要1964」を見てみよう。

松陰第一隧道 1952年(昭和27年)12月竣功
全長41.5m、素掘41.5m、幅員3.6m、高さ2.5m、舗装無し、正面工無し

松陰第二隧道 1954年(昭和29年)9月竣功
全長18.7m、巻立18.7m、幅員4.5m、高さ2.4m、舗装無し、正面工あり

松陰第三隧道 1953年(昭和28年)3月竣功
全長34.0m、巻立12.0m、素掘22.0m、幅員3.8m~4.5m、高さ4.5m、舗装無し、正面工片面あり

となっていた。松陰第一隧道が素掘りで、3本の隧道のうちで一番小さい隧道だったことがわかる。第二隧道と第三隧道は現在の状態と正味そのまま。この3本の隧道は県道に昇格して車の交通量が増えた際に、そのままでは対応できなかっただろう。こうして松陰第一隧道は掘り直して改修され、第二隧道と第三隧道は海側に迂回路が作られ、この2本の隧道は放棄された…となるのだが、確認のため山北村史通史編をひっくり返して調べている最中、こんな記述を見つけてしまった。


かつて、下海府村の寒川地内松陰隧道から浜新保までの間には、大小合わせて十八の隧道があった。いずれも手掘りで、高さが一・五メートルから一・八メートル、幅が一・三メートルくらいのもので、路面には水たまりが無数にあり、曲がりも多く、昼でも灯火が必要であった。そんな場所を三十センチメートルくらいの棒を片手にしながら通行していた。

 

(山北村史 通史編712ページから一部引用)

え~と…隧道の各数値が記録と合わないじゃないか!

「道路概要1964」を見返してみると、この松陰第一・第二・第三隧道と、その手前(村上側)にある蓬莱第一・第二隧道のみ、竣功年が昭和になっている(蓬莱第一・第二隧道は1941年(昭和16年)竣功、素掘、高さ3.7m~3.8m、路面舗装無し、正面工無しとなっている)。

…なんか、おかしい。

これは天王沢隧道やアジリキ隧道の時と同じく、竣功年が違っている可能性が大なのだが、どの記録を見ても、この松陰第一・第二・第三隧道の竣功年は1952年(昭和27年)から1954年(昭和29年)になっている。
そこで、この松陰第一・第二・第三隧道と蓬莱第一・第二隧道の前後の隧道の竣功年を見てみると、勝木側の鵜泊隧道が1898年(明治31年)、寝屋隧道が1903年(明治36年)、村上側の宝谷隧道と根込隧道が1913年(大正2年)となっている。(位置的には、この後にアジリキ隧道、天王沢隧道と続くが、この2本の隧道は1912年12月竣功)
これらのことを考えると、この松陰3本と蓬莱2本、計5本の隧道は明治から大正生まれの可能性があるのだが…いかんせん記録がない。よって、この竣功年に関しての謎は継続調査とし、新しい事実がわかればすぐに追記したい。


昭和20年代の後半に、この3本の隧道は改修を受けたか竣功したかは不明だが、これで笹川流れの道路網の原型がやっと出来たと言ってもいいだろう。
それは、それまで海沿いの崖路や山を越える峠道、あるいは細くて暗く、途中は水たまりだらけの素掘りの隧道を通るしかなかった笹川流れの村々にとって、一直線に海側を通って行ける車道が次第に完成する運びとなった。その当時の集落の方々の喜びようが目に浮かぶようである。
そして現在、この3本の隧道のうち1本は改修されて現道に組み入れられたが、他の2本は放棄され、現道の脇でその余生を静かに送っている。

第6部へ