一般国道345号
笹川流れ狭路隧道群
第6部 鵜泊隧道
2018年12月23日 探索・2019年1月20日 公開
これまで数多くの隧道を紹介してきた笹川流れ狭路隧道群も、いよいよ最後の隧道となった。
大トリを務めるのは、鵜泊(うどまり)隧道である。
お馴染み「道路概要1964」によれば、鵜泊隧道の竣功は1898年(明治31年)。実はこの鵜泊隧道は、現在の国道345号の中でも2番目に古い歴史を持っている(1位はもちろん1858年生まれの、あの隧道)なのだが、その歴史のある隧道は、現在使用されている鵜泊隧道ではない。実は鵜泊隧道はもう一本ある。それもほとんど目につかない、死角と言ってもいい場所に、ひっそりと今も口を開けているのだった。
この隧道を訪れるにあたり、ある程度事前調査はしているが、その辺は後にするとして、まずは現地に行ってみよう!
鵜泊隧道の勝木側坑口である。ここに来たのは、この日の探索で最後だった。
私は村上側からこの隧道に来たが、この鵜泊隧道の前にもう一つ、2018年7月18日に供用開始した全長282mの「新鵜泊トンネル」がある。このトンネルは、それまで海側を通っていた現在の旧道の区間が、見通しが悪い上に落石の恐れがあり、おまけに道幅が狭い上に歩道がないと言う、この国道が県道村上温海線だったころの面影を色濃く残す区間だった(この区間はトンネル開通後、現在は立ち入り禁止になっている)。
さて、話を鵜泊隧道に戻そう。御覧の通り、坑口の左側は吹き付けコンクリートで補強されており、隧道が貫いている山は岩山と言うほどでもない。至って普通の山である。さて、旧道はどこかな?。探索に入る前に、まずは扁額を見てみよう。
おお!ひらがなだ!。ひらがなで隧道名が書かれている!(笑)
日本全国からすると、おそらくそう珍しいことではないのかなと思うが、今までこの345号を辿ってきて、ひらがなで隧道名が書かれている扁額は初めてである。なんかかわいい(笑)
しかし、この隧道は「山北町史 第6章現代 第6節土木建設事業の推移」の表によれば、昭和42年度の竣功である。この隧道もなかなかに古いが、明治31年生まれというほどではない。じゃ旧道はどこなんだ?と言うわけで、隧道の坑口周辺から調べてみることにした。さしあたって、先ほどのこの画像を見て頂きたい。
おや、坑口の右側は墓地になっているのかな。…坑口のすぐそばに墓地って言うのも、なんだか妙な気がする。ここじゃないだろうなぁ…などと思ったが、それにしては直感からか、なんだか妙に気になるので墓地の入口から奥を覗き込んでみることにした。
うおおおおおっ!
これは…穴?!(笑)。もしかして、これが初代の鵜泊隧道か!。
妙に坑口が狭い気がするが、これはおそらく坑口上部が崩れてしまい、坑口の半分が埋まってしまったのだろう。その証拠に、坑口上部の土が崩れているように見える。地盤が弱くなっているのだろうか。
そういえば、この鵜泊隧道…全長57.4m、うち支保工57.4m、幅員2.0m、高さ2.4m、竣功1898年(明治31年)と「道路概要1964」にあるが、これを見ると全長すべてに支保工が入っていたことになる。てことは、もしかすると地盤が弱く、ものすごく崩れやすかったのかも知れない。なので、新潟県道村上温海線の道路改良工事を行う際に、鵜泊隧道だけ隣に掘り直したのかなと思った。まずは中を覗き込んでみよう。
う~ん…これは通れないなと、すぐにわかった。しかも洞内から吹きつける風が全くなく、おそらく完全に閉塞しているだろう。入らない方が得策と判断して眺めるだけにしたが、しかしまぁこれほど支保工が崩れているとは…。これはさすがに危険と感じた。しかし、この支保工の低さは尋常ではない。果たして、記録通り2.4mもあったのかなぁと言う気もする。
この坑口は勝木側。全長が57.4mなら貫通していれば村上側の坑口の明かりが見えるはず。が、その明かりは覗き込んでも見えないので、やっぱり閉塞している。しかし、村上側も坑口の跡くらいはと思って調べてみたが…
村上側坑口のそれらしき場所には、住宅が建っていた。崖の中ほどに妙に凹みがあることから、隧道跡はここかと思って撮影しようと思ったが、住まわれている方々が外にいらっしゃったので、カメラのレンズを向けることは遠慮させていただいた。ご容赦頂きたい。
1898年(明治31年)竣功の古豪の隧道は、閉塞していた。
隣に掘られた現在の鵜泊隧道がその役目を引き継いで鵜泊集落と寝屋集落をつなぐその脇で、今もひっそりと旧鵜泊隧道がたたずんでいる。