一般国道345号
笹川流れ狭路隧道群

第3部 アジリキ隧道

2018年11月25日 探索・2018年12月17日 公開

前回、天王沢隧道を出て振り返った私は、その名前の元になったであろう小さな滝(沢?)と対面した。隧道と隧道の間にある明り取り(と言うにはやや広すぎるが)のような短い区間で小休止した私は、50メートルも離れていない目の前の隧道、アジリキ隧道に向かう。
この「アジリキ」と言う名称は天王沢隧道の冒頭でも述べたが、天王沢隧道とアジリキ隧道が貫いている小さな岬の名前をアジリキ崎(文献によっては「アジアキ崎」と記されているものもある)と言うそうで、そこから命名されたようだ。

これがアジリキ隧道の板貝側入口である。入口は崩落を防ぐためにコンクリートの吹き付けが行われているが、内部は天王沢隧道と同じく非常に雰囲気のある素掘りの隧道である。こういう隧道は(貫通していれば)個人的に非常に大好きである(笑)
入口には天王沢隧道と同じく木造の落石除けがあり、足元には木材が散乱していた。このアジリキ隧道もおそらくは通行を止めるための柵が作られていたのだろうが、崩れてしまっている。しかし、丸太で造られた落石除けはしっかり原型をとどめているので、近づいて観察してみることにしよう。

近づいて木造の落石除け(支保工)を見てみると、なるほどよく出来ている。この落石除けのためか、隧道の入口の路面は砂利や岩も少なく、非常に歩きやすい路面だ。ふと思ったが、この支保工は現役当時からのものだろうか。もしそうだったら、かなり年季が入った支保工になるが…。
ま、それはともかく、いよいよ入洞!

おおっ♪

思わず声を上げてしまった。間瀬隧道の時と同じく、ハタから見ればアブナイやつである(笑)
それはさておき、隧道の内部は乾燥していて非常にきれいである。しかし、天王沢隧道の時も思ったのだが、この狭い隧道を県道として車が通っていたのだろうか。昔の車は今の車よりも車幅が狭かったとは言え、この隧道の幅は2台が並べるような幅ではないと思う。そうすると、やはり交互通行だったのだろう。板貝側入口にあるあの広場は、交互通行の待避所として使用されていたと考えられる。

個人的な趣味になるが、私は古い車も大好物である。この道を古きオート三輪が走っていたら、非常に素敵ではないかと考えてしまう。オート三輪なら楽々すれ違い出来そうだ。今でもあまり崩れることはなく、その姿を留めているアジリキ隧道だが、掘り進めた場所が良かったのだろう。

隧道の中をよく見てみると、隧道の路面の中央部にコンクリートで造られた細い構造物がある。この構造物は隧道の端に沿って設置されていた。路面の消雪施設ではないようなので、水道管か何かだろうか。いずれにせよ、この構造物があるから、この隧道も最低限の管理はされているのかもしれない。
こういう隧道を通るとワクワクする。それは小さいころに見たテレビのナントカ探検隊の影響かも知れないが、今まで知らない景色や風景を初めて見ること、体験することに対しての期待感や冒険心みたいなものだろうと思う。

アジリキ隧道の今川側出口である。実にいい感じの隧道である。道として踏み跡がついていることから、地元の方々や釣り人の方々などが、散歩や釣り場の往復などで訪れることもあるようだ。また、板貝側と同じくコンクリートの吹き付けが行われている。この旧道は国土地理院の地図上からは抹消されており、道路法上の道路としては役目を終えているが、地図の表記上だけではない道の歴史が天王沢隧道と共に今も刻まれ続け、道として今も使われていることに嬉しく思った。

少し離れたところから俯瞰的にアジリキ隧道を眺めてみた。よく見ると右側には道路施設もあったりして、ここが旧道だったことをさりげなく教えてくれる。天王沢隧道と同じく岩場の真ん中を隧道が貫いており、地盤的には硬そうであるから、それも今でもこの隧道が残る要因でもあるかも知れない。

アジリキ隧道を抜けて、現国道に向かっていく旧道。これが冒頭で述べた現地図の崖の記号の部分である。この通り舗装もしっかりとしており、県道時代の道路施設もまだまだ健在。道路の形をここから眺めて見ると面白いもので、旧道の方が道路形として自然のように見える。

旧道から今川側の海岸線を望む。実にいい風景である。今は国道345号が貫いているこの景色も、悪天候時には山側を迂回するしかなかった道。大正浦隧道や尺ナギ隧道、天王沢隧道が掘られる前は、通行には随分と危険な道だったろう。旧道はもうすぐ現道と合流して終わりとなる。

旧道の天王沢隧道とアジリキ隧道を一本で貫いている、現道の弘法トンネル今川側坑口。坑口が斜めに飛び出している形式の坑口で、確かベルマウス式と言っただろうか。坑口付近が開けている場合に採用される坑口である。

さて、この2本の隧道の竣功はいつ頃なのだろうか。大正浦隧道は江戸時代(!)、ヒトハネ隧道が大正時代だったことを考えると、この2本の隧道も同時期の竣功と考えられるが…出来る限り遡ってみよう!。

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