一般国道290号
堰下橋 第1部

旧 新潟県一般県道上谷地越後長澤停車場線)

2019年12月10日・2020年1月18日 探索
2020年2月28日 公開

橋の素性へ

改めてこの橋を見てみると、なかなか貫禄のある橋であることがわかる。こういう橋は大好きだ。また、ここから見える旧道の雰囲気もすこぶるいい感じ。この橋をもっと知るためにも、ここから見える順番で橋を調べてみたいが、そうなるとまず調べるのは親柱だろうか。幸い、親柱は4本とも健在で残っているので、素性がわかるだろう。

まずは左側手前の親柱。竣功当時はおそらくは四角かったであろう親柱の頭の角は、北国新潟の雪や風の風化で欠けてしまい、丸くなってしまっている。そういえばこの前にレポートした国道7号の明月橋も、頭が丸くなっていた。やはり雪が原因の風化だろうか。その親柱には金属の銘板がはめ込んであり、ひらがなで「せきしたばし」と刻んである。銘板の下はコンクリートの白華現象で白くなっていて、年月を感じさせてくれる。今度は右側手前を見てみよう。

おっ!竣功年月日が刻んであるっ!

銘板によると昭和38年(1963年)11月竣功とある。57年前に竣功した歴史ある橋だ。この橋を最初に見かけたときに「昭和20年代から30年代ではないか」と見込んでいたが、当たっていたようだ。こちらの親柱はさほど損傷がなく、竣功当時の姿を残しているように見える(苔は繁殖してなかっただろうけど(笑))。そこには華美な装飾は一切ないが、こういった武骨な感じの親柱もそれはそれでなかなかいいもんだ。

今度は左側奥の親柱。ここにはこの橋が当時所属していた道路の名称が記された銘板がはめ込まれていた。「県道上谷地越後長澤停車場線」とある。この「上谷地」の地名は、ここから五泉市方向へ少し進んだところにある集落の名前だ。対して後半の名前である「越後長澤停車場」は、今は無き「弥彦東線」の終着駅だった。


ここで弥彦東線とはなんぞや?。ということで、まずは弥彦線を調べてみよう。
弥彦線は、今の越後線とともに私鉄の越後鉄道により建設された鉄道路線だ。最初に弥彦駅から西吉田駅(現在の吉田駅)間が、彌彦神社への参詣鉄道として1916年(大正5年)に開業。続いて西吉田駅から一ノ木戸駅(現在の東三条駅)間が、現在の越後線と信越本線を連絡する目的で1922年(大正11年)から1925年(大正14年)にかけて延伸され、信越本線と接続された。さらに1927年(昭和2年)夏には南東の南蒲原郡長澤村の越後長澤駅までの区間が開業した。この線路、いずれは鹿峠村と森町村(前掲3村はいずれものちの下田村、現在の三条市)を経て福島県只見町まで延伸する計画の下で建設が進められたが、越後長澤駅まで開業した 1927年(昭和2年)の秋に国有化され、延伸計画は消滅することになる。

このうち、通称「弥彦東線(やひことうせん)」と呼ばれていた東三条駅から越後長澤駅間は、その沿線の人口密度が低かった上、終点の越後長澤駅も当時の長澤村の中心地から若干離れていたこともあり、太平洋戦争以前の段階から利用者数は低迷。また太平洋戦争中の1944年(昭和19年)10月には不要不急線として営業休止となり戦後に復活するが、これ以降も通学客以外は乗客も少なく、不採算が慢性化する。この区間には並行する県道に路線バスが運行されており、さらにモータリゼーションが急速に進行したこともあって利用者数は減少の一途をたどり、1968年(昭和43年)の国鉄の赤字路線廃止の取り組みである「赤字83線」の一つに指定。1984年(昭和59年)の弥彦西線の電化の際も、東線は将来の廃止が決まっていたことから電化されず、翌年1985年(昭和60年)4月1日に廃止された。この弥彦東線の路盤はその後、平行する国道289号の路線改良に転用され、現在に至っている。


現在の越後線の前身である「越後西線」に比べて、只見町への延伸計画も叶えられずに歴史の隙間に消えていった越後東線。その終着駅である越後長澤駅の追跡は後日に譲るとして、今はこの県道の追跡を進めよう。まずは、残る右側奥の親柱だ。


これが右側奥の親柱。「堰下橋」とあるが、橋の字が「はしごはし」になっている。この字が掘られている銘板は初めて見たが、何か理由があってこちらの字を採用したのだろうか。銘板がはめ込まれている親柱の下側は、ここも白華現象が始まっている。この橋が竣功して50年以上の時間が過ぎているから、それも仕方ないところか。

橋の素性が明らかになったところで、今度はこの堰下橋の周囲と、現道に架かっている「新堰下橋」を少し調べてみてから、旧道へ入っていこう!。


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