一般国道113号 沼沢旧道
第4部

2022年4月17日 探索 2023年1月27日 公開

悠久の時

米坂線の見事な玉石積みの擁壁を後にして先へ進む。この左カーブは旧道と米坂線の交差からすぐのところにある左カーブだ。旧道はここから桜川の川岸に出て沼沢の集落へ向かっている。御覧の通り、これまで山の中を進んでいた印象から旧道の周りに民家が増えてきて、集落が近いということを教えてくれている。
ところで、あれほど道の周りに存在して私の顔を日焼けさせた雪も、民家が近くなるにつれて少なくなってくる。正直、これはありがたかった。今こうしていても、汗をかいてタオルで拭くと、ヒリヒリして痛い。今日の風呂が怖いわー(笑)

これまでも狭かったが、ここにきて一段と幅が狭くなった旧道は左側の山の斜面に沿って進んでいる。前方には現代に建てられたと思しき民家が1軒。道の脇に立つ小屋は、おそらくこの道が旧道化してから建てられたものだろう。米坂線はこの左の斜面の上を通っている。そして、桜川は右側の端っこに少し見えている木々の下あたり。つまり、旧道は左の米坂線と右の桜川の間の狭い平地に通しているのだ。
集落があって道が出来て、そこからさらに集落が発展したと考えると、やはり道は「道路難瞼ヲ除却シ、道線ヲ開通スルハ人智ヲ開明スルノ基礎」なんだなぁと実感する。

民家を過ぎて更に進むと、またこのような自然いっぱいの中の道に逆戻りだ。そこを旧道は通っている。右側には桜川、左には斜面の上を通っていた米坂線とここにきてご対面。ただ、せっかくご対面したにも関わらず、米坂線は短い隧道に入って羽前沼沢駅を目指している。ここで手元の地図を見てみよう。おなじみ地理院地図をプリントした地図で、レポートの導入部(初回)で使用した、あの地図だ。

その地図を見てみると、この先に見える右カーブを過ぎると米坂線と桜川に挟まれた、これまでよりも非常に狭いところを通っている。でもって米坂線のさらに上には現道が通っているので、よくよく地図を見るとこの狭いところに旧道、米坂線、現道と三世代の交通が通っているのだ。

よくもまぁ、こんなところにこれだけいろいろ通したもんだ…

上の画像で見えていた、米坂線の隧道の下にやってきた。
山側の法面に並んで作られた物々しい雪崩防護柵の列が、この線路が雪と戦ってきた歴史を持っていることを教えてくれる。それはすなわち、ここが豪雪地帯であることを証明しているようなものだ。その隧道のポータルが黒く煤けたようになっているのは、蒸気機関車時代の煤煙の名残だろう。線路脇には「50」の表示板。ここを通る列車は最高速度が50キロに抑えられているようだ。

道の脇に目をやると、地味に少しだけ残っている石組みの擁壁。なぜにここだけ残っているのか、それとも最初からこの部分だけだったのか。あるいは他の部分が埋もれてしまったか…。現地を見ても答えは得られなかった。この擁壁は奥に見える隧道脇の擁壁と共に、米坂線が開通した当時に建造されたものか。そうなると、先ほどの交差地点に作られた擁壁と同じ、実に87年前(2023年現在)の建造ということになる。
早速、見に行ってみよう。

見事だ。

すっかり苔むして、自然と一体になっているかのような土木建造物は非常に美しい。ここも同じく、長年道路を守り続けてきた歴史に裏打ちされた姿は、思わず見とれるほど美しかった。

ここでこうして眺めれば眺めるほど、この擁壁はここに道を通したときに作られたような気もしてきた。左側の擁壁の上、山の斜面の角度と、右側の桜川に落ち込む斜面の角度が似ている。ということは、この旧道は路盤の部分だけ山を削って通されたものではないか。そうなると、この擁壁は道が切り拓かれた際に斜面崩壊を防ぐ目的で造られたことになる。第3部でも書いたが、国道113号の前身となる小国新道の宇津峠から綱取橋まで開通したのが1881年(明治14年)11月(綱取橋旧橋第3部を参照)だから、この仮説があっていれば、この石垣はおよそ141年前(2023年現在)の擁壁ということになるのだ。改めて、その悠久の時に頭が下がる。

長い時間の流れを感じた擁壁に別れを告げて先へ進むと、今の現道や米坂線との位置関係が一目でわかる場所に出る。画像中央部がそれで、一番上段の築堤が現道、その直下にある擁壁に守られた築堤が米坂線、一番下にあるのが我らが旧道だ。そして、その先には沼沢の集落が見える。あの集落が今回の私の探索の終点だ。だが、宇津峠に近い山間の集落であるこの沼沢集落は、私にとってある意味で実に思い出深い集落となった。

それについては第5部でお話しすることにして
今は集落を目指そう。

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