一般国道113号旧道
綱取橋旧橋 第3部

(完結編)

2019年5月3日 探索 2019年10月11日 公開

豪雪地帯の交通

ここからは調査編。この綱取橋旧橋は、実は今まで数多くの先輩諸氏が取り上げておられ、旧道としてメジャーな存在である。そのためここではあまり深く追うことはせず、この橋も含めた国道113号の歴史を少し紐解いてみたい。
それと言うのも、この橋のことを調べるには国道113号の歴史を調べるのが手っ取り早いだろう、ということもあった。そこからいろいろと調べてみたところ、小国町史にこのような記述があった。

小国は西境に大里(おり)峠(487メートル)を控え、東に宇津(うつ)峠(490メートル)が存在する。荒川渓谷を吹き上げる風は多量の積雪をもたらし、いわゆる県内の多雪地帯である。ことに宇津峠の周辺に多く、沼沢は日本一といわれ1938年(昭和13年)1月5日には駅構内の積雪深が、4.2メートルに及んだ。(西暦表記は筆者追加)

この時代の駅とは今の鉄道の駅ではなく、それは宿場のことだったり、郵便や荷物の中継地点を表していた。引用の中に記述があるが、冬季になると4メートルを超す凄まじい積雪量のため、小国町へ入るのも出るのも、その通行には困難を来したようだ。その中でも特に通行困難だったのが宇津峠で、この1938年(昭和13年)のころには既に県道が開通していたにも関わらず、その県道の道筋があまりの急勾配のために、荷車が荷物を積んだままで峠を上ることが出来ず、その手前の手の子の宿や落合の宿で荷車から荷を一旦下ろし、荷車を分解するか空車にして、荷物と共に人力で頂上まで運ぶという方法で峠を越えていた。この急勾配と大迂回する道形のために、この区間は後世になって宇津トンネルが掘られ、それまでの道は廃止となる。


この宇津峠を中心とした峠道は、県道が開通する遥か昔から交通の大きな隔たりとなっていた。米沢から小国に向かうと十三里(51キロ)の間に峠が十三あることから十三峠と言われ、小国から新潟県側の関の駅(現在の下関、上関)に向かう道も、七里(27.5キロ)の間に朴の木・萱・大里・長坂・榎・鷹の巣・二重坂の、実に七つもの峠を越えなくてはならず、小国は出るのも入るのも非常に不便を来していた。

小国の地は山岳が多く、西は越後まで七里、東は米沢をへだてること十三里、いずれも瞼難な峠ごえで、舟車の便は勿論、重荷の担う牛馬さえ容易に通行することができない。そのために郷土の産物、ぜんまい・うど・栗・菅莫産・雑穀など何れも運賃に引かれて利益はいくらもない。また、越後からの塩・鮭・日用品など、これも輸送の便が悪いので高価なものになる。隣村と隔絶しているため米穀が豊作であれば価にかかわらず買人がないし、凶作の時は反対に売人がないというわけで、零細農家の貧窮は思いやられる。これはとにかく小国の周囲が塞がっているからである

なるほど、これは確かに思いやられる。この塞がった状況を、某県の元知事の言葉をお借りすると「どげんかせんといかん(なんとかしなきゃいけない)」というわけで、まず新潟県側の荒川に船による航路を通し、荷上場をそれぞれに造ろうと計画した。だが、この計画は実現しなかった。その理由は明確ではないが、おそらく資金的なものだろうとされている。そこで今度は荒川沿いに新たに自力で人が通るだけの、いわばパイロット版の道を作り、それが出来たら県に拡幅してもらおうと考えて、新潟県側の金丸や八ツ口の集落にこの計画を提案し、参加を要請するほど熱意をもって説明に当たったとある。このパイロット版の道は1876年(明治9年)4月に完成し、10月には図面と開削に関する見積書を県に提出して、県費による開削を願い出た。

やってきた、あの男

そんな中、時を前後して1876年(明治9年)8月3日。鶴岡県、置賜県の二つの県を山形県に併合して出来た「新」山形県に、あの男がやってくる。そう、あの男とは初代山形県令、またの名を「土木県令」とも言われた、三島通庸(みしまみちつね)である。
彼は着任したその翌月に、区長、戸長(今で言う町長や村長)を集めての会議の際に、こう諭達している。
「道路難瞼ヲ除却シ、道線ヲ開通スルハ人智ヲ開明スルノ基礎」
1876年(明治9年)10月31日、荒川新道に次いで十三峠の全線にわたって新道を開削するよう、地元の区長をはじめ三名が三島に建言(意見を申し立てる)した。三島はこの案を採用すると返事はしたものの、それからさっぱり音沙汰がないので、翌年1877年(明治10年)5月に再度陳情を行う。しかし翌年の1878年(明治11年)3月になっても実地検分(今で言う測量)を行う兆しもない。小国町史を読んでいると、これはおそらく費用の面からということと、新道が通過しなくなることで衰退が予想される宿場町の陳情の対応などもあったのではないかと言う気もがするが、正しいところはわからない。
結局、十三峠の道が正式に改良が決定されるのは建言してから実に4年後の、1880年(明治13年)5月22日に行われた置賜三郡町村連合会会議でのことだった。ここから宇津峠側の十三峠や新潟県側の七つの峠の改良工事が始まることになる。


さぁ、遠回りしたが、ここからいよいよ綱取橋のお話に入っていこう。
1880年(明治13年)10月8日には、西置賜郡役所が新道通過箇所決定通知として各村戸長に対して、このような通達を送っている。

新潟県ニ通ズル小国街道上小松村ヨリ松原村手ノ子村ヲ経テ宇津峠ヲ切割リ沼沢村ヘ達シ同村ヨリ間瀬川ニ沿ツテ綱木箱口村ニ達シ伊佐嶺村、松岡村、町原村、小国町村、小国小坂町村ヲ経テ小渡村、舟渡村持地内ヲ過キ羽越境迄ノ間新線路開墾スヘキ旨御確定ニ相成候為心得此旨相達候事 明治十三年十月八日 西置賜郡役所

なかなか読みにくいものがあるが、早い話が上小松村から新潟県境までの改良の道程を示したもので、これに従って改良を行いますということだろう。綱取橋はこのうち、綱木箱口村の辺りが該当するだろうか。
「小国新道」と呼ばれたこの工事は1881年(明治14年)10月に着工となったが、同時期に綱取橋も着工となっている。ただ、この宇津峠付近の工事で最も困難を極めたところが沼沢と箱ノ口の間とあり、これはまさしく綱取橋の前後の区間だ。

宇津峠の二里一二町(9.16キロ)の間の工事はなかなか難工事であったが、全区間において最も困難を極めたところは沼沢と箱ノ口の間である。この区間は横川に沿って道路が西に延び、綱取に出て、更に右岸について進んで東松に至り、そこから綱木山に渡るところに石橋(綱取橋と言う)を掛け、その半腹に沿って箱ノ口に至るまでおよそ一里三十四町余、その間千刃の懸岩、横川の流れを挟む幽玄境である。

この通り、今で言う子子見片洞門から綱取橋、綱取片洞門から現道へ合流する区間の道は、この道路工事における全区間中の難所だった。その中でも「幽玄境」と表現がある明沢川を渡る綱取橋は、特に難工事だったことが伺える。この時の記録によると、橋は長さ十五間(27.3メートル)、幅二間半(4.5メートル)、高欄高二尺(60センチ)、水底岩盤にて根石はなく、眼鏡直径外面九間(16.3メートル)、高さは水底から四間半(8.2メートル。今はもっと高いだろう)とある。綱取橋架橋工事は1881年(明治14年)10月に仮架橋工事に着工したが、あまりの難所のため、転落による一名の犠牲者、二名の怪我人も出たようだ。ダイナマイト爆破のため、槻木や胴転木の片づけの最中に怪我したという事故が起きたとの記述がある。

小国新道完成へ

こうして、かなりの難工事だったこの区間は1881年(明治14年)11月10日、まず最初に宇津峠の区間が工事終了して供用開始となる。綱取橋の区間も1883年(明治16年)に竣功。こうして十三峠側が開通しはじめたことにより、新潟県側である関の宿から小国までの開削・改修工事の機運も高まり、工事も急ピッチで進められ、1884年(明治17年)10月23日小国小学校において開通落成式が執り行われた。
ただ、この時は新潟県の金丸地内はまだ開通しておらず、この区間が竣功を迎えて荒川新道・小国新道と呼ばれたこの道の全区間が実質的に開通したのは、翌年の1885年(明治18年)秋だった。今から実に134年前のことである。


この道が開通したことによって、新潟県から小国町を通り飯豊町に抜けていく国道113号の、現在では旧道となっている道が出来た。
この後、小国新道は県道から国道に昇格。現在は直轄国道として新潟県と山形県の間の、人や物流をつないでいる。

1883年(明治16年)の竣功から
2019年の現在まで、実に136年。
今でこそ渡る人は少なくなったが、
多くの人や車、荷が行き交ったであろう
遥か遠い昔を思い出しながら、
「川を渡る」という役割を
今も果たし続けている、その橋は…

一般国道113号旧道
綱取橋旧橋

完結。

本文参考資料・一部引用…小国町史
本文中の年号の記述は、2019年現在です