山形県一般県道349号
鶴岡村上線旧道 大針洞門

第7部
「想いはあの日のまま」

2023年9月30日 探索 2024年1月22日 公開

想いはあの日のまま

ここが現道との合流点だ。位置関係からすると、現道はこの画像の右側を、右側に見える電柱の方向へ向かって走っていることになる。そして、第6部の画像からチラチラお目見えしていた石碑と祠までやってきた。祠は、ここから見る限り非常に立派なもので、今でもきちんと管理されている様子を伺わせる。また、祠自体は痛みはほとんどなく、その屋根は銅板とまではいかないものの丈夫な鋼板で仕上げてあり、これなら台風が来ようが雪が降ろうが平気だろう。問題は左の石碑だが…完成記念碑という種類のものではなさそうだ。それなら、花は手向けない。と言うことは供養塔か…確認してみよう。

実はこの探索の時に撮影した画像を誤って消去してしまい、この画像はそれより半月後に別の探索で付近を訪れた際に撮影したものだ。石碑には5名の方の名前が記されていたが、それは画像を編集してモザイクをかけ、伏せさせていただいたのでご理解願いたい。

そこに記されていた文字は、やはりこの石碑は供養塔で昭和37年11月23日の日付と、建立した団体の名称が記されていた。昭和37年と言えば西暦だと1962年、私が生まれる9年ほど前のこの年は5月3日に常磐線で三河島事故が起きたり、初の国産旅客機であるYS-11が飛んだり、初のコピー機が完成したりと、いろいろあった年だったようだが、この供養塔に関係するものは見当たらなかった。11月23日は勤労感謝の日。およそ61年前に何があったのか、それはわからずじまいだったが、勤労感謝の日に建立されていることと、建立された場所がここであることから、この付近で事故か何かで亡くなられた方々ではないかと思われる。
ペットボトルのお茶やお酒、お花などが供えられていて、今でも御供養されている方がいらっしゃるのだろう。その方々にとっては62年前で想いは止まったままなのだ。そのことを思うと思わず胸が熱くなる。私も隅っこながら道に携わる身。深々と一礼し、心からご冥福をお祈りした。

隣にある祠は馬頭観音。なんとも立派な祠に護られて今も大切に祭られている観音様で、左側の屋根部分は一部が傷んだのか新しい木材で修復してあるのがわかる。これがここにあるということは、この道は古くから牛馬による荷車での物流が行われていた証であり、この道自体も非常に重要な道だったことが伺える。もしかすると街道筋だったかもしれない。この辺は、のちほど旧版地形図で確認してみよう。

これが現道と旧道(=廃道)の分岐点だ。右が現道、左が旧道。実にわかりやすく分岐しているので、私がもしこちら側から来たとしたら間違いなく突っ込んで行っているだろう。だが見ての通り道の形(道形)からすると、旧道の方が実に自然な形で通っているのがわかっていただけると思う。おおよそ旧道の分岐点はこんな感じで、その入口がヤブに包まれていても、じっと眺めているとおおよそわかってくるから不思議なもんだ。
今度は現道を通って戻ることにしよう。この道を現道から見たときにどんな顔を見せてくれるのか楽しみだ。

この画像は現道から撮影したものだ。現道を戻り始めてすぐに馬頭観音の祠の前で撮影した。旧道は赤川沿いに山肌に沿って進んでいくが、現道はここから赤川を渡り集落の中を通って、また赤川を渡って旧道と合流する。このため現道は川沿いを通ることになり、旧道よりもかなり標高が低いところを通っているようで、先ほどの馬頭観音の祠の前では、これだけ高低差があるのだ。つまり現道はそれだけ上がり下がりするわけで、旧道は一定の勾配(またはほとんど平坦か)で無理なく通っているのだ。実にわかりやすい。

長靴をボコボコ言わせながら現道を歩いていき、最初に赤川を渡る橋。それがこの「ひぐればし」だ。画像はその橋の銘板を撮影したものだが、この銘板の設置の仕方が都道府県によってまちまちなのが面白い。普通の橋は片方に橋梁名のひらがなと竣功年月日、もう片方の側には橋梁の漢字名と、渡る川の名称が刻まれているのだが、新潟県では違う。片方の親柱には橋梁のひらがな名称と橋梁の竣功年月日、もう一方の親柱には橋梁の漢字名称と、その橋が所属する(していた)路線名称が刻まれているのだ。だから、その橋が所属する路線を追跡するときにはすごく楽なのだが…

さ、ここから先は現道から見た旧道の風景だ。
旧道がどんな風景を見せてくれるか。長靴の音を響かせながら歩いていく(笑)

第8部(完結編)
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