一般国道8号
赤田トンネル旧道
曾地峠 第1部
2020年8月13日 探索・2020年8月30日 公開
バリケードのところまでやってきた。車が通れないようにしっかりとガードされてはいるが、歩行者と自転車は通れるようになっている。いわゆる「遊歩道」状態になっているようだ。路面には草の侵食もなく、バリケードがなければ現道と変わらないようにも見えるが、なぜこの道が旧道になってもこのようにきちんと管理されているのかは、この後知ることになる。
バリケードを越えて先へ進む。路面に残ったセンターラインの跡が、ここが旧道であることを主張しているかのように道の中央を陣取っている。広い道幅は大型車が余裕で対面通行することが出来るだけの幅で、幹線国道ならではのものだ。ここはよく見ると切り通しになっていて、元々は一つの山だった場所を切り拓いたことがわかる。
切り通しを過ぎると左カーブで峠を目指す。その路面にはしっかりバンク(路面の傾き)もついていて、急カーブにも関わらず、安全に通過できるようになっている。右側の路肩に立ち並ぶ白い支柱は元々あったガードレールの支柱で、レールだけが無くなったり外れたりしたあとの残骸だが、これは旧道を巡っているとよく見かける。廃道においての路肩の目安になったりするので、周りがヤブに囲まれているときなどには、これが目印になったりするのだ。
左側には鳥居が並んでいるが、ここは左側の路肩の下が崖になっていて、ここからの不法投棄が絶えないんだそうな。なので畏怖の対象である鳥居を並べて、少しでも不法投棄を防いでいるようだ。
先へ進むと、左側に石碑を見つけた。表面が一部汚れており、画像では見にくいと思うが「御注輦記念所(ごちゅうれんきねんしょ)」とあって、全体的に古さを放っていて、最初に造られたのはかなり昔なんだろうなと思って辺りを見回してみる。この石碑の辺りは拓けていて、その中心の一番見晴らしがいいところに…
明治天皇の北陸御巡幸の際に休憩された場所がここらしく、このような立派な石碑が建っていて、石碑の正面には「明治天皇御注輦記念碑」とある。チェンジ後の画像は石碑の裏面で、現地で一旦は読み始めたが、読み進めるのに苦労しそうだったので撮影しておいた画像だ。ところで、ここは現道の赤田トンネルの直上に当たるらしく、この碑のそばにある展望台から下を覗き込むと…
赤田トンネルの柏崎側坑口がすぐ近くに見える。これを見ると赤田トンネルの坑口は突出型になっているようで、地山から飛び出しているのが見えるだろうか。現道はこの柏崎側坑口を出るとすぐに赤田大橋で谷を渡り、旧道の分岐点に繋がっている。この画像では赤田大橋の先の画像上端ギリギリのところに黄色い表示板が見えるが、ここが旧道の分岐点の場所だ。
ふと手前を見ると「建設省」の文字が刻み込まれた標柱があった。この旧道は今でも国の手で管理されているのかも?などと考えて辺りを見回して見つけたのが、チェンジ後の画像だ。国土交通省長岡国道事務所の手で埋め込まれた基準点の表示で、そんなに古いものではなさそうだ。やはりこの旧道、きちんと管理されているようで、その理由はおそらくこの石碑と、トンネル坑口上部の維持管理と思う。他に何かないかと見回してみると…
広場と道を挟んで反対側の法面にある、立派な土留め工だ。生えている苔の漢字からすると、そんなに古いものじゃない気がして眺めていると、左側に銘板がある。この銘板を確認したのがチェンジ後の画像だ。
「平成20年度地すべり防止事業 土留め工 長さ21m 新潟県地山課」とある。赤田トンネルが開通したのが1985年(昭和60年)なので、平成20年度と言えば旧道化してから23年後。旧道化してからもこの道が必要とされてきたのは、この峠がそれだけ重要な場所を通っているからだろう。明治天皇がもし沖見峠を通っていたら…やはり道の狭さがネックになっただろうなぁ…
広場の奥に、先へ進む細い道が続いている。ここからが本当の旧道の始まりだ。路面にも草が侵食してきて道幅もかなり狭くなり、いかにもそれらしい雰囲気になってきた。電柱が見えるので、今でも作業道として使われているだろうから、ヤブ漕ぎはしなくてもよさそうで一安心。でも探索としてはここからが本番。周りに構造物がないか、ゆっくり目を凝らして進んでいくことにしよう。