一般国道7号旧道
勝木峠 第1部
2019年1月14日 探索・2019年1月26日 公開
和暦の「平成」最後の年となった、2019年。
寒さが厳しい冬真っただ中の時季に、私は新潟県村上市の北部に位置する、古くは出羽街道の宿場町として栄えた「勝木(がつぎ)」という町にいた。この町は、海沿いの外海府(そとかいふ)の道と、山沿いの内海府(うちかいふ)の道が合流する町でもある。
その外海府の道は、現在では笹川流れを通る国道345号となり、内海府の道は蒲萄峠を通る国道7号となって現在に至る。この内海府の道は古くは出羽街道として知られるが、これから紹介する勝木峠は、街道から外れる間道(かんどう。街道の別ルート。広義では外海府の道も出羽街道の間道)であり、車道(荷車道)として道中の勾配の緩和を目的に作られた明治新道と呼ばれる道で、山北村史第5章「近代」の第3節「交通・通信の発達」によれば、1893年(明治26年)頃に新潟県三等県道鼠ヶ関線として山形県境まで「新道」と呼ばれる道が開通したとある。この新道は計画では二間半だったが、峠道や難工事の場所ではそれよりも狭いところが多かった、との記述があり、おそらくこの時に勝木峠も開通したものと思われる。
そして、勝木峠は蒲萄峠と同じように、1920年(大正9年)には旧制国道10号に指定。昭和に入って1952年(昭和27年)には一級国道7号に指定され、後に一般国道7号となる由緒正しき道なのだ。
竣功当時の幅は、先ほども少し書いたが昔の度量で二間半(にけんはん)。おおよそ障子5枚分と言えばわかりやすいだろうか。一間がおよそ182cmなので、二間半だと455cm。4m55cmになる。今の道路幅と比較すると非常に狭いが、荷車で通るには十分だったのだろう。そして出来るだけ緩やかな勾配で山中を通り抜けるように作られた為、つづら折りの連続になっている。そして、蒲萄峠や大毎峠と同じように、途中に隧道は一本もない。
それでは麓の勝木から、府屋へ向かうことにしよう。
この画像は、現在の国道7号から分かれて旧道に入ったところである。
国道7号を村上側から来ると右側に新潟交通観光バス勝木営業所があり、そのすぐ先から斜め右に分かれる道がある。これが勝木峠に通ずる国道7号旧道の分岐点で、この道は勝木の街中を抜けると途中で右に曲がって峠に向かう線形なのだが、どこが旧道の入口か非常にわかりにくくて、道なりに進むと勝木駅に出てしまう。この入口の目印は道に埋め込んである消雪パイプで、画像の位置から先へ進むと消雪パイプが道なりに直進せずに、右に曲がって山へ向かっていく細い道に埋め込まれている、よく見ると不自然な三差路がある。この三差路を直進すると勝木駅へ向かう道なのだが(勝木駅方向には消雪パイプはない)、ここを消雪パイプの通りに右に曲がってしばらく道なりに進むと、下の画像の場所に出る。
ここからが勝木峠の始まりなのだが…おや?何かバリケードがある。…なにっ!全面通行止?!。
全面通行止の文字に少し焦ったが、よくよく見るとバリケードが不自然な形で空いている。蒲萄峠の時も最初に訪れた時は通行止になっていたが、あちらはしっかりとバリケードされていた。それに対して今回は、どことなく緩い気がする。…これはきっと、通行止めしようとして出来なかったんだろうな。理由はおそらく積雪なのだろうが、目立った雪もないようだし、ひとまず近づいて確認してみることにしよう。…あっ!
ん…おおっ!なんだか不思議な力が働いて、気が付くとバリケードの内側にいた(←白々しい)。通ってしまったのは仕方ない。何かあったら引き返すことにして、ひとまずこのまま進むことにしよう。改めて道をよく見ると、非常に狭い道だ。今までで一番細かった道のトップは一般県道506号岩沢中条線だが、ここもそれに負けないくらいなかなかに狭い。この狭さゆえに、この先どんな景色を見せてくれるのか、非常に楽しみだ。
先ほどの場所から山を回り込むように道を進むと、道は竹林の中を進む。一瞬「ここは京都か?」と思ったが、そんなことはない。バリバリの新潟県村上市勝木の山奥に明治車道を探して、一人の中年がこれから突っ込もうとしている。
路面に刻まれた二本の轍が表しているように、この勝木峠は道としてはまだまだ現役で、国道として造られた路盤の堅牢さが今でもちゃんと生きていることが、非常に嬉しい。
先へ進むと、雰囲気だけは嵐山である(笑)
当時はバスも走っていたかも知れない。こんなところで前からバスがひょっこり顔を出して来たら、どうなるだろう。この頃のバスは、バスと言っても現代に走るおなじみの形ではなく、ボンネット型のT型フォードの後ろの長くしたような形をしていた。もちろん、車体の幅も今のバスよりは小さかったかも知れないが、それにしてもこの道幅では、まず行き違いが出来ない。
こんな道でのバスの「ひょっこりはん」は、出来れば避けたいところだ(笑)。さらに先に進むと…
おおっ!旧制道路標識じゃないか!
小ネタとしても紹介させて頂いたが、これは注意の標識である。これまで、よくぞ残っていたものだ。でも、ここで何に対しての注意だったのか、補助標識がないので伺い知れない。標識の下には穴だらけの板がついているが、これはおそらく反射釦が取り付けられていた板だろう。昔は反射塗料なんてものはなかったので、夜間に標識の存在を知らせるために反射釦を取り付けて、視認性をあげていたようである。さ~て、この標識が意味する注意の対象は…クマだろうか。そんなことはないか。
先へ進むと、緩やかな左カーブ。いかにも明治車道の雰囲気を醸し出している、いい道である。
周りに杉の木が多く、そのほとんどが下枝が枝打ちされているので、この杉はおそらく植林されたものだろう。この旧道は林業関係者の方々が使う林道として、村上市の手で整備されているようだ。もしかすると、村上市道かも知れない。
先へ進むと、今度はこのようなカーブが現れる。結構なヘアピンカーブだが、カーブの外側の道幅を大きくとってあり、これなら先ほどのバスでも楽々曲がれるだろう。カーブの半径自体は結構小さい。こうしてカーブを重ねてつづら折りで峠目指して登っていく。
先ほどのヘアピンカーブから少し進んで、下を見てみるとこの通り。道路形がよくわかると思う。これが明治車道の特徴的な道路形で、地形に沿って忠実に、出来るだけ勾配を緩やかにして馬車や牛車の通行を用意にしていた。その昔、この道が開通する以前は勝木から府屋へ出るには海側の大崎山を越える峠越えの狭い間道しかなかったが、内陸側の峠を越えるこの車道が開通したことで物流が一気によくなり、そこに住む方々にも変化が現れたことと思う。
一つ目の、名もない峠にたどり着いた。木々の隙間からこぼれる日差しが柔らかく、冬の日差しとして非常に暖かい。荷車を引いた馬は、ここでひときわ急になる勾配に歩みも遅くなり、息を切らして荷を引いたことだろう。今回私が訪れたのは冬だが、この道を夏に訪れると…きっとアブたちが大騒ぎしている。虫よけスプレーは必須だろうなぁ…。
ん~、いいねぇ!
一つ目の峠の頂上付近である。しばし立ち尽くし、切通しが美しい峠の雰囲気を満喫した。この切通しを作るのに、重機など全くない当時では大変な労力だったことだろう。でも、路肩の石垣がないのが少し寂しい(笑)
ここでひとまず休憩。コンビニで買った、すっかり冷めたお茶を片手に、ここを通った人たちに想いを馳せる。そういえば、この峠にはここまで泉や湧き水の類がない。馬たちはどこで休憩し、乾いた喉を潤したのだろうか。
さぁ、進もう。この先、道は碁石川を目指して下りになるはずである。