一般国道7号旧道
蒲萄峠 第6部
(完結編)
2018年9月6日 探索・2018年9月10日 公開
2018年10月21日 加筆修正
肝心の峠部分が通行止めになっていたが、日にちを改め再訪して完結した蒲萄峠。
国道の原点ともいえる大正時代に、旧制国道10号に指定されるほどのその道としての貫禄は、素晴らしいものがあった。
ところで、この蒲萄峠の「蒲萄」と言う地名を、お馴染み「角川地名大辞典」で少し調べてみた。すると…
「越後から出⽻へ通じる出⽻街道の要衝。難所で有名な蒲萄峠の⼊⼝。真⾔宗⾏福寺は,弘仁13年弘法⼤師が出⽻湯殿⼭参詣の途次、えびづる (蒲萄蔓)をもって⼩庵を結んだのに始まると伝えられ、⼭号は蒲萄⼭。出⽻街道を⾏くこと約3kmの明神岩の絶壁の下に式内社の漆⼭神社があり、⼀般には⽮葺(やぶき)明神といわれている。元禄2年芭蕉に供して奥の細道を旅した曽良は、蒲萄峠について「名ニ⽴ツ程ノ難所ナシ」と記している。」とあり、この地域では中世の南北朝の頃では「分当」、近世の江戸期~明治22年にかけては「蒲萄村」となり、明治22年〜現在には大字名、とされている。(以上、角川地名大辞典より引用)
この道を芭蕉が歩き、明治車道となり牛車や馬車が通って馬頭観音が出来て、大正時代に旧制国道に指定され国道10号となり、その国道に乗合自動車が走って人が動くようになり、昭和になって一級国道7号となって更に多くの人と荷を通して繁栄をもたらし、その経路が1966年(昭和41年)に変更になった後も、今でも私のような物好き(笑)を通して、明治車道としての威厳を保ち続けている道。
最後に、この道で一番印象に残った風景をもう一度見てみよう。
澄み渡った青空に美しい緑、その中を一直線に進む蒲萄峠旧道。
賑やかだった当時を知る者は少なくなったが、道は残り続ける。そんなことを思いながら進んでいる私の脳裏に一つの言葉が浮かんだ。おそらくこれが道の、それも旧道が存在する一つの意味なんじゃないかと思ったりする。
数年後、この近くを日本海東北道が通るはず。
その時も、この旧道が壊されることなく残っていることを
心から願う。
人が道を通し、道が人を通す
そこには決して表に出ることのない、数多くの隠れた物語がある
一般国道7号旧道
蒲萄峠
完結。