一般国道7号旧道
蒲萄峠 第2部

2018年7月26日 探索・2018年7月27日 公開
2018年10月18日 加筆修正

国土地理院の電子地形図(タイル)に注釈と矢印を追記して掲載

まずは地図を見てみよう。これは明神橋付近の位置関係を示した地図である。地図の朝日トンネルを抜けた少し先から右に入る、大毎峠へ向かう道がある(標高162mの水準点の地点。矢印の頂点あたり)が、この道に入ってすぐ、明神川沿いに明神橋方向から合流する道がある。これが蒲萄峠旧道で、明神橋方向に遡っていくと丁字路になり、直進が旧出羽街道、右は明神橋を渡り蒲萄峠方向へ向かっている。

上の画像は、大毎峠から分岐して蒲萄峠方向へ向かう途中の画像。普通車1台分ほどしか幅がない道が、緩やかな坂道とカーブで峠へと向かっている。車輪のついた荷車などが登れるような勾配の道。これが明治新道の特徴である。

このあたり一帯は杉林で、訪問時は林業関係の方々が木を伐りだしていた。傍らに丸太が積み上げてあるのが見えるだろうか。この道はこうした林業の方々の作業道としても活躍しているようで、今でも現役の道として活躍している。

更に登っていくと緩やかな上り坂。大正時代に国道10号に指定されると、ここを乗合自動車(バス)が走ったことは最初に書いたが、ここをホントに走ったの?と疑いたくなる。しかも、当時は未舗装路だったはず。なかなかスリル満点だったのでは…

この画像は、照り付ける日差しから退避して撮ったため、画像がやや暗めになってしまった。ご容赦願いたい。国道に指定された当時もこんな風に木陰があったのかはわからないが、もしかすると当時もここは休憩箇所だったかもしれない。向こうから坂道を下りてきた牛車や馬車がここで一休みしている光景が想像できよう。

道は美しい木立の中を抜けると、やがて明神橋へ。
この橋の袂に神社があり、名前は「漆山神社」。またの名を「矢葺(やぶき)明神」と言うのだそうで、なんでも源頼義、義家父子が北狄征討の役を終えて凱旋帰路の折に参拝し、その際に余剰の矢をもって社殿の屋根を葺いたので、矢葺明神ともいわれているのだとか。また安産の神として近郷の信仰が深いのだそうで、何となくこっちの方が真実っぽい気がする。

さて、この矢葺明神と明神橋。今回は旧道を車で登っていき、明神橋に到達はした。しかし、持倉鉱山の時とは比べ物にならないほどの凄まじいアブの数で、到底車から降りることが出来ず、画像はやむなく車の中から撮影した。

明神橋の欄干。「昭和43年3月竣功」とある。蒲萄峠が現在の道筋に変わったのが、1966年(昭和41年)なので、この橋が架け替えられたのは旧自治体の朝日村が管理する村道になってから、と言うことになる。それまでの明神橋も、おそらく同じ位置にかかっていたのではと思われるが…(近所に橋が架けられそうなスペースがない)

探索時(2018年7月)は、この明神橋以降の蒲萄峠旧道は通行止となっていた。封鎖方法は池の平橋側と同じく、A型バリケードに「通行止」とあるだけの簡素な封鎖だった。この先の旧道は地形図を見ると、今まで見てきた蒲萄峠旧道のどんな道よりも明治国道らしく、緩やかな坂道に折つづらが続く道のようだ。通行止めの原因はわからないが、おそらく道のどこかが滑ってしまい、幅員が狭くなっての通行止めではと思っている。

国土地理院の電子地形図(タイル)に注釈と矢印を追記して掲載

かの松尾芭蕉も通った旧出羽街道。矢葺明神から旧出羽街道に入ると、道は北黒川、中継(なかつぎ)を通り、堀切峠で県境を超え山形県温海町に入っていく。そして、大正時代前半から乗合自動車も走り、人を通し続けてきた蒲萄峠旧道。1966年(昭和41年)に今の道筋になり、そして今、日本海東北自動車道が蒲萄峠旧道の真下をトンネルで通ろうとしている。

村上市役所には既に通行止めの理由を問い合わせており、これは近日中に返答が来ると思う。
通れるようになったら、すぐに会いに行こう。蒲萄峠へ。

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