一般国道402号
角田トンネル旧道

色見隧道 第5部
(完結編)

2019年11月24日 探索・2020年1月19日 公開

時空の追跡

前回までは航空写真を比較して調査してみたものの、色見隧道がいつ出来たのか今一つ満足な結果が得られなかったので、今度は旧版地形図を取り寄せて、各年代で比較してみることにした。
では、早速見てみることにしよう。まずは1967年(昭和42年)6月30日。

この地図は、1967年(昭和42年)6月30日 国土地理院発行 5万分の1 「弥彦」を使用したものである。

上の画像は1967年(昭和42年)のものだ。角田岬の灯台の下に隧道の記号が見えるが、これは海岸の際を進むヘツリ道の途中にある人道用の隧道だ。この隧道は今でも同じ位置に存在している。ということは、この段階ではまだ色見隧道は「なかった」ということになるのだが…。ところで角田岬の山側に中途半端で終わっている道が見えるが、これが色見隧道の痕跡だろうか。位置的には隧道を掘る現場に繋がっている作業道のようにも思えたりもする。では、今度は1971年(昭和46年)!。

この地図は、1971年(昭和46年)7月30日 国土地理院発行 50000分の1 「弥彦」を使用したものである。

隧道の記号が2本ある!

続いて、1971年(昭和46年)の地図を見てみよう。地図の記号にそれぞれ違いがあり、道の記号は実線の里道になっている。しかし、1967年(昭和42年)の地図に見られたあの「中途半端な道」は、やはり色見隧道掘削の為の作業道だった可能性が高く、この地図を見ると1967年(昭和42年)当時に途切れた位置から隧道が始まっているように見える。また、色見隧道を越えた先の道はこれもまた途中で途切れているものの、そのすぐ先にヘツリ道のカーブが見えていて、そこに道を繋げようとしているかのように見える。これからすると、色見隧道は 1967年(昭和42年)から1971年(昭和46年)の間に竣功したことと思われる。さぁ、今度は1982年(昭和57年)へ!。

この地図は、1982年(昭和57年)7月30日 国土地理院発行 50000分の1 弥彦」を使用したものである。

1982年(昭和57年)の地図では、既に越後七浦シーサイドラインが開通していて、間瀬を中心に進められた道路工事は1975年(昭和50年)7月に北側の間瀬 – 角田浜間が開通しているが、この地図の時には国道402号に指定(一般国道指定は1982年(昭和57年)4月)されて無料化になったすぐ後である。この道のカーブの感じといい、この頃には角田トンネルに切り替わっていたと思われるが、この地図には魚見橋の姿がない。記述漏れだろうか。

この地図は、2003年(平成15年)8月1日 国土地理院発行 50000分の1 弥彦」を使用したものである。

今度は2003年(平成15年)の地図である。一見すると1982年(昭和52年)当時とさほど変わっていないように見えるが、角田トンネルの海側にあった人道用の隧道の記述がなくなっている。この隧道が繋がっていた海側のヘツリ道はこの時点で廃止されているようで、そのため地図から抹消されたようだ(ただし、隧道自体は今でも存在していて通行可能)。

当時の姿に想いを馳せて

航空写真と旧版地形図で様々な時代を見てきたが、直接的に色見隧道の竣功や廃止に繋がる確証は得られなかった。しかし前後の道路の状況から考えると色見隧道の竣功は1967年(昭和42年)から1971年(昭和46年)の間、廃止は1975年(昭和50年)7月と推測される。つまりこの隧道、非常に短命の隧道だったようだ。最短で4年、最長で8年しか使われなかったことになる。色見隧道が現道として存在した時期が、ちょうどシーサイドラインの工事が進められていた時期とも重なるため、もしかすると工事用のパイロット道路で掘られた隧道だったのかもしれない。
また、色見隧道手前の旧道と思しき部分も実は旧道ではなく、工事用道路の跡と言う可能性も浮上してきた。現道開通時に角田トンネルと魚見橋が開通していたなら、あの旧道と思われた部分の道形が不自然になってくるのだ。また、海岸のヘツリ道の延長線上にあるので、もしかするとその道の跡かな?などとも考えたのだが、それにしては道の高度が違い過ぎるのが気になる。最も海側を通っていたヘツリ道の隧道は、角田岬手前では海面に近いところを通っているが、この旧道は海岸からは相当高いところを通っている。なので、やはり工事用道路の名残かな?と言う気がする。


この探索中に実は一人お会いした方がいる。それは私が探索中に色見隧道の脇の急斜面を難なく降りてきた方なのだが、そのあまりの手慣れた所作に感動してしまい、斜面から降りてきたその方に声をかけてみると、地元の建設業者の社員で20代後半と思しき男性だった。その方曰く「私はこの斜面の上にある、落石防護施設の点検と、それに関連して近々工事が始まるので確認に来たのですが…」とのこと。私は廃道関連のWEBを運営していること、その関連で今日ここに調査をしに来ていることを話した上で、更に詳しくお話を伺うと…

「この辺の土は火山岩で、土の中に小石が多く含まれているのと、柔らかく水に弱いという性質を持ちます。つまり、ひとたび雨が降ると流れる雨水が柔らかい地面を削って土と小石が流れ落ちてしまい、それに応じてその上にある大きな石が自身の重量に耐え切れず、道路に落ちて落石になります。なので、そうなる前に落石防護の施設が大丈夫か、落石の可能性がある危険な岩盤がないか点検をしています。もし、危険性がある岩盤があったら、先に落とすか崩すようにしないといけませんので」
…と言うことは、色見隧道も弱い岩盤を貫いていて落盤や崩壊の危険があって、厳重に閉鎖されたのかもしれないという気がしてきた。

いずれにせよ、色見隧道は非常に短命な隧道だったようだ。今回調査をするにあたって、新潟市立図書館でも新潟県立図書館でもかなり資料を探したが、色見隧道の現役時代の画像は見つからなかった。当時の様子は航空写真と旧版地形図で確認するしか手立てがなく、この隧道の在りし日の姿はわからなかったが、色見隧道と手前の旧道があったからこそ今の角田トンネルと魚見橋があり、陸の孤島と呼ばれた越後七浦を貫く道路が出来たことは間違いないように思える。出来ることなら、この色見隧道もシーサイドラインの一員になってほしかったし、通ってみたかったが…。

今はこの坑門だけが、ここに隧道があったことを伝えている。

一般国道402号
角田トンネル旧道
色見隧道

完結。