一般国道402号
角田トンネル旧道

色見隧道 第4部

2019年11月24日 探索・2020年1月7日 公開

草に埋もれた坑門

さて、色見隧道から魚見橋を渡り、歩いて角田浜側にやってきた。これは現道の角田トンネルの角田浜側坑門である。振り返って見てみると、なかなか貫禄のある坑門じゃないか。海沿いであるが故に坑門のコンクリートは多少傷んではいるが、1975年(昭和50年)から45年、およそ半世紀なので、致し方ないところか。さて、色見隧道の坑門は…

角田トンネルから出て、山側を歩いていく。秋のこの時期になると草は段々と枯れてきて、やがて冬枯れの時期に入るはずなのだが、このようにまだまだ「盛大」と言ってもいいくらい茂っている。この分だと色見隧道の角田浜側坑門は草に埋もれているかもしれないなぁ…などと思いながら先へ進んでいく。この探索には一応旧版地形図を持っていて、その地図を確認しながら進めていた。その地図上では多分このあたりなんだが…

おおっ!お出ましだっ!

…それにしても。貫禄があるというか、いい感じの坑門だなぁ…。空気穴らしきものは開いているものの、相変わらず「しっかりと」「これでもか」と塞がれているのが非常に残念だ。それに魚見橋側の坑門と同じように、突出型坑門ではないけど、坑門自体が少し前に出ているような気がする。
さて、近くに近づいていこうかと思ったが、実はそれはやめておいた。この日は雨上がりで隧道の前の草原が非常にぬかるんでいて、迂闊に入っていくと身動きできなくなりそうだったからだ。今度は真夏に訪れて、カラカラに乾燥した日に長靴を履いて訪れよう。
しかし、なぜここまで厳重に塞がれているのだろう?。私の非常に少ない廃道経験でも、新潟県内ではここまで厳重に塞がれている隧道は見たことがない。机上調査で何かわかるだろうか?。出来る限り調べてみよう。

時間を越えて

さて、ここからは机上調査編である。まずは航空写真を調べてみることにした。
まずは1962(昭和37年)5月18日。

1962(昭和37年)5月18日 国土地理院撮影

真ん中にあるのが角田岬。右の砂浜は角田浜海水浴場だ。この時代にはまだシーサイドラインは影も形もなく、角田岬の灯台の方向へ上がる道が見える。この道は灯台を越えて、この画像を見ても急であることが一目でわかる斜面にへばりつくように進んでいて、切れ込んだ谷のような場所で一旦途切れるが、そのあとすぐに海岸沿いに道が降りているように見える。ということで、この時代にはまだ色見隧道の姿は航空写真では見当たらない。次は1973年(昭和48年)8月13日。

1973年(昭和48年)8月13日 国土地理院撮影

おおっ!。色見隧道が山を貫いているっ!。しかもトンネル手前には、今回紹介した旧道がハッキリと写っているではないか。この画像で左側が魚見橋側、右側が角田浜側になるが、海岸沿いに飛び出した魚見橋側の小山の周りを回り込むかのように走る道路の形まで、はっきり写っている。しかし…色見隧道を通って出た角田浜側の道路の線形が、現在と多少違うような気がするのは、気のせいか。
こりゃあやっぱり旧版地形図の出番かなぁ…。次は1975年(昭50)11月18日!。

1975年(昭50)11月18日 国土地理院撮影

これはシーサイドラインが開通した後の画像である。よく見ると角田浜側の色見隧道の坑門が見えるし、小山を回り込んでいる旧道の姿もハッキリと見える。ということは、色見隧道が廃止になったのは、角田トンネルと魚見橋が完成したのと入れ替わりということで間違いないだろう。これで色見隧道がいつ廃止になったかはわかったが…ここで私の悪い癖が出た。

なんとなくしっくりこない。

色見隧道はいったいいつできて、いつ廃止になったんだ?と言う疑問である。何せこの隧道は恥ずかしがりやなのか、新潟県の数々の資料に一切顔を出してない。何しろ、このサイトでおなじみの「道路概要1964」にも顔を出していないのだから、実にミステリアスな隧道なのだ。こうなると、やはり旧版地形図が必要だ。早速手配して、移り変わりを見てみよう!。

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