一般国道351号旧道
榎峠・比礼隧道 第4部

2019年5月2日 探索・2019年6月25日 公開

前回、道は頂上付近になり、隧道はもうそろそろかと思っていたら、目の前にその姿を現した比礼隧道。その姿は純粋な建造当時の姿ではなく、坑門が改修と言うか補強された姿だった。

左上は光の加減で判別しにくいが、右上にはもともとの坑門の一部であろう胸壁の姿が見えている。よって、この姿は何かの理由で浦瀬町側の坑門が崩れるか危険な状態になり、そのために補強されたものと考えた。隧道内部は…補強されているだろうか。暗闇の向こう側には比礼側の風景が見て取れる。隧道自体はしっかりと管理されており、通行するには支障なさそうだ。

振り返って、隧道までの浦瀬町側の道を撮影。ここから見て右側は田圃だったのか、今は耕作されていない空き地が見える。左は森になっているが、この風景が見える少し前の左側に空き地があり、そこには立ち入り禁止の立て札と「油井跡があるため危険」との注釈があった。この森の中に油井があったのだろうか。では、隧道に入って、まずは比礼側に出てみよう。

比礼隧道の比礼側坑門。この隧道は変わった隧道で、途中で大きさが変化していた。浦瀬町側の隧道内部が分厚い巻き立てで補強されたのか狭くなっており、途中でその巻き立てが無くなって建造当時の姿になり、比礼側に通じている。あまりの変化に驚き、つい画像を取り忘れて比礼側に出てしまった。もう一度通って撮影するが、まずは比礼側坑門の付近を観察してみよう。

比礼側坑門右胸壁にあった銘板。竣功は1958年(昭和33年)8月で、今からおよそ61年前の竣功である。左には隧道内部の照明に使用する電線を引き込むために使用したであろう保護パイプが残っている。もちろん今では証明設備や電線は取り外されており、隧道内部に照明はない。

坑門上部に扁額が見える。胸壁はのっぺりとしたコンクリート造りだが、長年年月を経てきたせいか、コケや灌木などがアクセントになり、いいヤレ具合となっている。扁額には「比〇(礼の旧字体)隧道」となっているが、この礼の旧字体はPCでは変換できない。この礼と言う漢字に対しては、こちらのサイトが非常に詳しく解説されておられるので、参照されたい。さて、では隧道左右を見てみよう。

これは比礼側坑門の左側。一見するとただの土だけに見えるが、拡大すると丸石(自然石だろうか)が組まれているのがわかる。実に自然な感じでいい雰囲気を醸し出している。これで胸壁が間瀬隧道のようにレンガ造りなら更にいい感じで垂涎ものだったのだろうが、それは贅沢と言うものかもしれない。

坑門右側には、左側と比べると比較的ハッキリと組まれた石垣の姿が見える。組まれている全長はさほど長くはないが、やはり現代のトンネルののっぺりとした左右擁壁と比べると、趣深い。隧道の坑門と、この左右擁壁が作りだす重厚な趣が大好きで、だからやめられない。ちなみに今までの私の一番は、間瀬隧道の間瀬側坑門。この画像は、私のPCの壁紙にもなっている。しかし…

これもいいなぁ!

間瀬隧道の他には中永隧道もお気に入りだが、この比礼隧道も仲間入りしそうだ。間瀬隧道中永隧道に比べると新しい隧道だが、隧道の雰囲気と言うか趣と言うか、それは負けていない。新緑も非常に美しく、いいアクセントになっている。ここから右を見ると…

美しい光景が眼下に広がる。下に見える空き地は耕作を放棄した田圃か畑か。冬になると雪に閉ざされるこの地では、耕作は大変なことだろう。眼下の森の中には山桜もポツポツと見えている辺り、実に絵になる風景。標高は結構高く、浦瀬町から随分と登ってきたことがわかる一枚でもある。

足元を見ると、傍らに用地境界杭が残っている。新潟県の境界杭だ。これは、現在は長岡市道になっているこの道が、もともとは新潟県一般県道だったことを示している証拠である。昭和50年に一般国道に指定されてから、新榎トンネルが開通するまで13年の間、この道は長岡と栃尾を結ぶ重要な国道としてその任を果たしてきたのだが、浦瀬町側の道の狭さを考えると通行するにも大変な道だったはず。当時の風景と苦労が偲ばれる。

さて。ではもう一度この隧道を通って、今度は「じっくりと」中を確認してみよう。

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