一般国道290号
堰下橋 第4部
(旧 新潟県一般県道上谷地越後長澤停車場線)
2019年12月10日・2020年1月18日 探索
2020年3月11日 公開
さて、ここからは調査編である。
この区間の国道290号は、サブタイトルにあるように新潟県の一般県道だった。この県道が何番の整理番号を付けていたのかは不明だが、その道筋は旧版地形図で確認することが出来る。まずは、その道筋から確認することにしよう。使用した地図はすべて、お馴染み国土地理院発行の旧版地形図である。
1952年(昭和27年)の地形図を元に、それぞれの位置関係を確認するために注釈を入れてみた。
地図中にある越後長沢停車場(駅)が弥彦東線の駅であることは第1部で述べた通りだが、新潟県一般県道上谷地越後長澤停車場線は、現在は国道289号になっている駅跡から鹿峠(かとうげ)の集落に向かい、そこから鹿熊川(かくまがわ)沿いに牛ヶ首薬師で有名な牛ヶ首の集落を経て上谷地(かみやち)の集落に至る、今は国道290号になっている道筋そのままの県道だった。そして、その道筋の上にあった鹿熊川を渡る地点に設けられたのが、堰下橋だった。これから少し時間を遡ってみよう。
これは1931年(昭和6年)の地形図だ。この頃には県道の姿はなく、里道の表記になっているものの、今の道筋は当時はさほど重要な道ではなく、その代わりに山側に聯路(れんろ。当時の町村道)が通されている。川側を迂回する現在の道筋とは違うこの道は、山の麓を真っ直ぐ突っ切る道筋になっていて、当時はこちらの道の方が重要視されたと思われるが、この聯路も地図表記は「荷車を通せざる部」になっているので、車道ではなかったようだ。
ところで、赤丸で囲った部分が現在の堰下橋の地点だが、地図上には橋の表記がないものの、これは地図上の記述ミスか、洗い越しの橋だったのか。それとも川の水深が浅かったので、そのままジャブジャブと渡っていたのかも。そう考えるとなかなか楽しいが、木橋などが架かっていたことも考えられる。現地を見た限りでは木橋の橋台等はなかったが、木橋時代の橋台を使って今の堰下橋が架けられたことも考えられる。いずれにしても、何らかの橋が架かっていたことだろう。
また、この時代でも牛ヶ首の集落と牛ヶ首薬師の名前は地図上に大きく記載されていて、当時からかなり有名だったことが想像される。なお、この地図の付近の当時の行政区域は、鹿峠村だった。
更に1914年(大正3年)まで遡ってみる。この大正3年の地形図と昭和6年の地形図は共に1911年(明治44年)に測量した結果を元にしているので、基本的な部分はさほど変わらない。従って川岸を通る今の道筋も、先ほどの聯路も変わらずそこにある。
ただ、一つ不思議なのは、昭和27年の地図では鹿熊川沿いの道が二重線になっていて県道の表記になっているが、なぜ直進で真っ直ぐ牛ヶ首の集落を目指す、山裾を進む聯路の道が県道にならなかったのかということだ。昭和27年の地図でも、この道は聯路として存在している(相変わらず、荷車を通さざる部になってはいるが)。この時点で車道になっていないということは、この道を車道に出来ない重大な理由が何かあったのか。点線表記になっている、およそ幅1.5mほどの鹿熊川沿いの道を道幅を広げて車道化する方が、よほど大変だったのではないかと思うのだが。
最後は1970年の地形図である。この頃は県道から国道に昇格した直後の地形図で、地図中で2本ある地図記号のうち、上側にある橋の記号が堰下橋だ。私が探索時に「まさか県道じゃないよね?」と思いながら通っていた道が、この地図上で国道であることが明らかになった。やはり、台地を回り込むあの細い道が初期の国道290号だったのだ。そりゃ局地改良になったりもするわね。
ところで、あの聯路はこの地図上でもちゃんと存在している。鹿熊川に沿って道が急カーブする地点から分岐して、真っ直ぐ牛ヶ首の集落を目指す小径がそれで、今もこの道はあるようだ。機会があれば再度現地に訪れて、この道を通ってみたいと思う。…通るなら、自転車かな(笑)。
この堰下橋は1963年(昭和38年)11月竣功。橋の構造からすると、この時代によく作られた典型的な桁橋だ。一見すると何の変哲もない古い橋なのだが、架かっている地点によってはなかなか奥が深い。初期の3ケタ国道の、未舗装で狭い道の細さもわかったし(笑)。
ただ、「なぜ、山沿いの直線路ではなく、鹿熊川沿いの道が県道になったのか?」と言う謎が残ってしまったが…これは継続調査としよう。
跨いでいる鹿熊川と共に、どことなく懐かしさを感じる橋だった。
非常に細い、あぜ道のような旧県道に繋がるこの橋の風景が、
いつまでも変わらないことを祈りたい。
一般国道290号 堰下橋
(旧 新潟県一般県道上谷地越後長澤停車場線)
完結。