一般国道252号旧道
三坂峠 第10部
(完結編)
2020年4月12日 探索・2020年8月22日 公開
さて、探索からここまで遅くなったが、三坂峠の完結編に入ろう。
コロナ禍で図書館も閉鎖になり、調査するのにも些か苦戦を強いられてしまった。
第3部のおさらいになるが、まずは地図をご覧頂こう。お馴染み、地理院地図である。
画像は右上側が明神方面で、左下側が十日町市方面だ。赤い実線が現道の252号で、そのそばに途中から山中に突っ込んで行く二重線が見えるが、これが三坂峠の旧道である。この道の明神側には、それまでの二重線の先が1本の実線になっている道も見える。これも252号の旧道で、レポート中だと第4部で灌木の林と格闘している場面がこの実線の区間だ。
これは1911年(明治44年)に測図された地図だ。現在の旧道の道形と違って、等高線に沿って素直に走っている感があるが、そこには製図技術や測量技術の差もあるだろう。また、二つの地図を見比べてみると、現旧道では山側に切り込んでいる箇所が2箇所あるが、これは後年に山側に切り込んでいる箇所の法面が崩れるか何かして、復旧工事を行った結果ではないかと思う。ということで、次の地図を見てみよう。
今度は1955年(昭和30年)発行の地図を見てみよう。1952年(昭和27年)に応急修正を受けた地図なので、だいぶ今の地図に近づいてきている。明治44年の地図を比較すると、「339」の標高点が三坂峠の同じ位置にあるので、これは同位置で間違いないだろう(なお、この標高点は現在では山側に移動し、「436」の数値になっている)。
今度は1994年(平成6年)に発行された地図を見てみよう。
この頃の地形図が一番実態に合っているだろうなと思うのは、気のせいか。特に明神側の分岐点や線形も一番忠実に表現していると思う。三坂峠にあった標高点「339」は無くなっていて、現道の三坂トンネルも開通しており、ちゃんと記載されている。
ここまで4枚の地形図を確認してきたが、この道は1911年(明治44年)当時も二重線で描かれているので、非常に重要な道だったことがわかる。そこで、何か文献的なネタはないかと新潟市立図書館から「十日町市史」を取り寄せてひたすら読んでいると、資料編7の第三章 交通・運輸、第一章 道路・交通の中に三坂トンネルの記述を見つけた。以下、引用である。
なるほど。このようなトンネル工事によくあるが、ここもご多分に漏れず難工事だったようだ。着工から三年。トンネルとしては決して長い工期ではないが、非常に崩れやすい地層を貫いた難工事と言うことは、よくわかる。それにここは屈指の豪雪地帯で冬は交通が途絶してしまったことから、無雪道路として開通した三坂峠により、冬季の交通が著しく改善したことは想像に難しくない。
この三坂峠は記録が乏しく、調べてもなかなか記録が出てこなかった。だが、現道が開通するまでの三坂峠は急勾配が連続する難所のうえ、細く曲がりくねった山坂の多い砂利の悪路だったと文献にあることから、相当な難所だったことが伺える。
この見事なまでに切り込まれた切り通し。当時から南魚沼と十日町を繋ぐ道は少なかったはずで、山ノ相川下条停車場線(当時は明神下条停車場線)と、この国道252号くらいしかなかったと思われる。だが、明神下条停車場線は聯路(れんろ)で、それなりに重要な道ではあったもののバスが通るほどの道ではなかった。だから、この三坂峠経由の道が非常に重要であり、この道の無雪道路化は地域の人々にとって悲願だったはずだ。
三坂トンネルが開通したことで、この道は南魚沼と十日町を結ぶ大動脈として活躍し、旧道は在りし日の三坂峠の面影を伝えるべく、交通が少なくなった今も、そこに佇んでいる。
旧道を辿った私は、当時の交通の面影を見ることが出来た。それは峠にとって何年ぶり(何十年ぶりかもしれない)の通行者だっただろうか。この峠道を振り返ると、あの風景を思い出す。
灌木と格闘している中で私を迎えてくれた、あの桜だ。
誰に見せるでもなくこっそりと咲いていたのを、格闘しながら峠道を通行する私を迎えてくれるかのように、その姿を見せてくれた。この木が大木になっていくかはわからないが、願わくば、これからも美しい花を見せてくれますように。
一般国道252号旧道
三坂峠
完結。