一般国道112号
早田川橋旧橋 第1部
「風景に溶け込む橋」
2025年6月7日 探索 2025年7月26日 公開
風景に溶け込む橋

さて、今回は前回の最後から始まる(←そりゃそうだ)。
右側に見えるコンクリート(おそらくPCコンクリートだろうが)の桁が、現道の早田川橋。対して旧道の橋は一段低い、この位置で早田川を越えている。正直、この高低差だと、現道からは旧道の橋の存在がわかりにくい。わざわざ狙ってこうしているのかな?と思う時もあり、もしそうだとしたら、いじわるな話だと思うが、そんなことはないだろう。
だが、実際にそう思う場合もある。今回の早田川橋もそうだが、国道113号明沢トンネル旧道第9部(この頃はまだサブタイトルを付けていなかった)で登場した「明沢橋旧橋」などは、その最たるものだろう。この橋の高低差はかなりのもので、普通に現道の橋を通行しているとまず見えないし、見るためには限度の明沢橋から覗き込まないと見えないという橋だ。もう一つは国道7号「名月橋旧橋」だろう。この橋は現道の橋から少し離れたところに架橋されているが、注意して見ないと絶対に発見できない。また、この橋のレポートは、当WEBで初めて新潟県立文書館にお世話になったレポートで、公的に掲載許可を頂いて掲載した架橋当時の画像が、当時としては最高であっただろう瀟洒な橋の雰囲気をしっかりと伝えてくれる画像で、この画像を今に保存してくれているという行政の力というものを、まざまざと感じたレポートでもあった。
では、橋に向かおう。…とする前に、石碑のようなものを見つける。確認してみよう。

これだ。こうしてみると、これは庚申塔。しかし、庚申塔とは何ぞや?という方もおられるかもしれないので、一応ここで解説しておこう。旧道や廃道を巡っていると、馬頭観音と同じくらいかそれ以上に遭遇することが多い石碑でもある(もちろん地域性もあるかもしれないが…)。こんなところで(現道のすぐ脇で)庚申塔に出会えたということは、すなわちこの集落がそれ相応に歴史のあるものだということの証明でもある。
庚申塔は旧暦に基づいた信仰の一種で、最初は人の中に住む「さんし」という虫が人間の日頃の行いを天に報告するという教えがあり、この虫を天に送り出さないように徹夜して過ごした。これがのちに徐々に米や食物などを持ち寄って集まりを開いたが、この集まりが3年18回続けた記念に建立したのが庚申塔の始まりとされている。以下、東京都目黒区のWEBにわかりやすく解説されているので抜粋してみる。
旧暦では60日に1度、庚申(かのえさる)の日が巡ってきますが、この夜眠ってしまうと人の体内にすんでいる三し(さんし)という虫が天に昇り、天帝にその人の日ごろの行いを報告するという道教の教えがあり、罪状によっては寿命が縮まると言われていました。寿命が縮まっては大変。この日は身を慎み、虫が抜け出せないようにと徹夜して過ごしました。日本では既に10世紀ごろには盛んだったようで、「枕草子」、「大鏡」などに記述があります。この教えが広まっていく中で仏教や庶民の信仰が加わり、江戸時代には全国の農村などで大流行しました。
身を慎むことから始まりましたが、徐々に米や野菜、お金を持ち寄り、皆で飲食・歓談して過ごす楽しい集まりになっていきました。また、さまざまな情報を交換し、農作業の知識や技術を研究する場でもありました。この集会を3年18回続けた記念に建立したのが庚申塔です。長寿や健康のみならず、家内安全や五穀豊じょう、現世や来世のことなどを祈り、それを碑面に刻みました。(以上、東京都目黒区のWEB(https://www.city.meguro.tokyo.jp/shougaigakushuu/bunkasports/rekishibunkazai/nani.html)より抜粋)
てなわけで、この庚申塔はかなり古くもあるようだ。周囲を確認してみると…

大正十二年四月吉日とある。その横には「上野村中」とあるので、みんながお金を出し合って建立したのかもしれない。大正時代には上の解説にもあるように「米や野菜、お金を持ち寄り、皆で飲食・歓談して過ごす楽しい集まりになっていきました。また、さまざまな情報を交換し、農作業の知識や技術を研究する場でもありました。この集会を3年18回続けた記念に建立したのが庚申塔です。」とあるので、この庚申塔も、ほぼ同じ条件で建てられたものだろう。この石碑の周りで、そんな集まりが過去に定期的に開かれていたのなら、それは実に素敵ではないか。私も当時の人と一緒に酒を呑んでみたくなった(笑)。

ふと左を見ると、木々の根元にこのような石垣が。丸石の乱積みではなくて、切り石を規則的に積んだ城壁のような積み方をしている。ここに植えられた木々は果たしてどんな意味を持っていたのか…。近くに庚申塔があることから、それに何か関連しているのか?と興味は尽きない。この周辺をしつこく探してみたがヒントになるようなものは何もなく、地元の方々もいなかったため不明のままだ。

さて、いよいよ橋の近くまでやってきた。低い高欄もそうだが、実に瀟洒な親柱が目を引く。現代の橋では観光用の橋を除いて、道路用の橋としてはまず見かけられないほど凝った意匠の親柱だ。普段使うものだから質素にするのではなくて、普段使うからこそ、きちんと意匠を施して風景の中に溶け込ませる。私はこの年代の橋が特に好きだが、それはこうしたところが遠因かもしれない。
ところで左側の親柱に何か取り付けられている。「通行上のお願い」というものだが…これは後で見てみることにして、まずは右側の親柱を見てみよう。

右側の親柱には「早田川」の文字が。大理石に筆書きの文字で彫り込んである、立派なものだ。…そういえば、同じ山形県の一般国道113号「旧栗松沢橋・旧旧栗松沢橋」や「旧辯當澤橋」、今は無き面影の橋の「木附橋」などの銘板と同じ仕様と言うことを思い出した。この銘板の仕様は山形県特有のものだろうか。そういえば、どことなく字体も似ているような気もするが…同じ人が書いたのかな?。そんなことはないか。
それにしても、この素晴らしい意匠の親柱はどうだ。近づいて詳しく見てみると、その重厚さに圧倒される。先端部の造りこみが素晴らしいし、親柱の四隅の部分にも角を丸くして、更に壊れないようにするためか、線を2本刻みこんでいる。
昔の橋の親柱は手が込んでいた。銘板一つ見てもそうだ。橋がいかに大切な存在だったかと言うことを、改めて教えてくれる。