一般国道113号旧道
木附橋

2020年5月2日 探索・2020年6月3日 公開

土木県令とも言われた、山形県令三島通庸。その三島が作った道の一つに現在の国道113号があるが、今回はその中の一つの橋をご紹介したい。その橋は、これまで当サイトで(いやと言うほど)紹介した片洞門の付近に、ひっそりと存在していたのだ。これは私がこの橋を見つけて、その素性を明かすまでのドキュメンタリーである。………などと堅苦しいことは、今回は無し!。その橋がどこにあるのか、まずはその画像をご覧に入れましょう!。

どこ?

ここである。この道は一般国道113号の弁当沢トンネル旧道で、この道を進んでいくと現弁当沢トンネルのシェッドに突き当り、その先には辯當澤橋があるという、あの道である。この弁当沢トンネル旧道と言えば、これまで当サイトでもご紹介しているのでご存知の方は多いと思うのだが、なぜ今さらこの画像を?と思う方は多いだろう。それにはちゃんと理由がある。実は今回の主人公は、この画像の中にいるのだ。
「そんなアホな」と思う方もいらっしゃるだろうが、事実である。

そもそも今回の発端は、私が道から外れて他のところを見ようとしたところから始まった。
この画像の左側に地面がへこんだ箇所があるが、ここは小さい沢になっていて、前回訪れた時には水が枯れていて流れがなかった。その時には特段何も思わなかったのだが、今回は雪解けの水が沢に流れていたのだ。この沢の水は路面の下を潜り抜け、右側の林の中を通って明沢川に流れこんでいるのだが、この沢が道を横断するときに私は思い込みでボックスカルバートコルゲートパイプ(日本製鉄グループの日鉄建材様のWEBへ飛びます)で抜けているものと思っていた。いや、思い込んでいた。それでも、一応確認と思って沢に降りてみようと近づいてみたら…

ん?なんか変だぞ?

ここでも私はアホなことに、この風景が何を示しているのかまだピンと来ていなかったのだが、賢明な読者の皆さんならこれを見た瞬間に何が起きているのか、すぐにわかって頂けたと思う。沢は左から右に流れていて、道の下を潜り抜けている。問題はその潜り抜けている場所の構造物だ。
これはどう見てもボックスカルバートでもコルゲートパイプでもない。もっと年季が入った何か。
そうなると、考えられるのはもう一つしかない。まさか…。ある考えが頭をよぎる。それは悲しい。その姿で生まれながら、その姿でいることを許されず、姿を変えてそこにいなくてはいけないということ。そうではないことを願いながら、近づいて見ると…

やっぱり!(泣)

間違いない。これは橋じゃないか!。
一部のコンクリートは剥がれて中の鉄筋がむき出しになり、欄干の高さだけ土を盛られて巧妙にカモフラージュされた橋は親柱を途中で切り飛ばされ、どんな名前の橋だったのか、わからなくなっている可能性もある。このコンクリートの粗さと、このものすごく低い欄干はかなり古い橋であることが考えられる。もう少しヒントはないか。日没が近いが、そんなことはお構いなしに調査に入った。

上の画像から電柱の方向に行ったところから眺めた画像がこれだ。山形縣の標柱が落ちていたが、「県」の文字が旧字体の「縣」だ。それに橋を構成している鉄筋が見えているが、表面にリブや節が付いた異形鉄筋ではなく丸鋼だ。いつ頃から丸鋼から異形鉄筋に切り替わったのかは私の勉強不足でわからないが、そう最近の話ではないと聞いたことがある。

丸鋼とは、単純に丸い鋼材のこと。鉄筋コンクリートに使う鉄筋は以前は丸鋼だったが、コンクリートの付着力に乏しいために鉄筋の表面にリブや節が付いた異形鉄筋が開発され使用されるようになる。現在は、鉄筋として丸鋼が使われることはほとんどない。但し、丸鋼は鉄筋に使用不可ということではなく使用することは出来るが、異形鉄筋と比べると性能が劣るため、敢えて使うことが無い。

間違いない。こりゃどう見ても橋だよ。それにしても低い欄干だなぁ。こんなに低い欄干はあまり見たことない。でも、なんでこんなことしたんだろう、この橋。その理由が今一つわからない。橋のままでも道としては大して変わらないんじゃないかと言う気がするが、道をかさ上げしなくてはならない理由でもあったんだろうか?。今度は反対側から見てみよう。

これが反対側の様子だ。橋台を支えるための石組みの橋台が見える。まさかこんなところに橋があるとは思わないもんだから、この角度は見なかったものなぁ…と眺めていたら、手前の石に白い板状のものがはめ込まれているじゃないか!。これはもしかして親柱では?。近づいて確認してみると…

親柱だ~~~!

なんと、こちら側には銘板も残っていた!。間違いない!。立派な大理石に筆文字で刻まれている、辯當澤橋の銘板と似た形の親柱で「昭和十七年十一月」とある。辯當澤橋の竣功が昭和十六年七月だから、この辺の道は辯當澤橋の方向から工事されてきたことになる。雪の時期も考えると辯當澤橋が竣功したあと、およそ1年かけて弁当沢トンネル旧道を切り拓き、この橋に繋げたものと思う。
こうなると反対側はどうだろう、何か残っていないだろうか?。そう思いながら見てみると…

ねぇ、あれは何かな?

この場で同行者がいるなら、私はこう言っていたことだろう(←実際、この場では口に出していたかもしれない。怪しさ全開である(笑))。
「…もしかしてアレってさぁ、親柱じゃない?」
「そうだよね。それも、鉄筋の丸鋼でかろうじて落下せずに踏ん張っている健気なヤツ………」
頼む!。銘板よ、残っていてくれ!。そう願いながら、まずは橋の上から近づいて確認してみると…

ものすごくわかりにくいと思うが、真ん中に石のようなものが見える。これが橋の上から見た親柱だ。どうやら銘板は斜め下を向いているらしく、下を流れる沢にも降りてみて望遠で狙えないか確認してみたが、銘板自体が斜め下を向いていて望遠レンズでは狙えなかった(この時には一応200ミリと450ミリの望遠を用意していたのだが)。となると、最後の手段は斜め下に向いている親柱に、橋に寝転がってカメラを持った手を差し入れ、広角ズームを付けたD90に更にクローズアップレンズをつけることで銘板の撮影に成功した!。それがこの画像だ!。

君の名は

木附橋!

「お前は木附橋と言うのか!。お前がこの名前で呼ばれたのは、いったい何十年ぶりなんだ!」…と現地で声に出して言ってしまった。ハッと気づいて辺りを見回してみたが、幸いにも周りに人はいなかったので変な人扱いされることはなかったことを報告しておく(←誰に?(笑))。
…でも、実際にそう思う。今のこの姿を見れば、まさかここに橋があるとは思わないし、名前を調べるまでもなかっただろう。この橋はもう何年も本当の自分の名前を呼ばれていなくて、たまたま立ち寄ってウロウロしていた私に本当の名前を教えたくて調べさせた…そんな気さえする。

最後に、木附橋を明沢川側の斜面から眺めてみた。新緑の中にたたずむ木附橋の姿は、今でも現役の橋のように貫禄があり美しい姿を見せてくれる。ボロボロの橋じゃないかと言う方もおられるだろうが、木附橋のこの姿は長い年月を重ねてこないと絶対に造りだせないものだ。時間だけが造ることが出来るこの風景は、幾星霜の時を越えて今ここに厳に存在し続ける。
橋の路面の上に土を盛られて、一見するとその前後の道と見分けがつかないような姿に今はなってしまっているが、私はこの木附橋の姿を見つけることが出来た。見つけられてよかった。
最後に、旧版地形図を一枚見て終わりにしよう。

この地図は国土地理院発行 大正二年測図 昭和六年要部修正測図 昭和十六年部分修正測図
昭和十八年三月三十日発行 手ノ子を使用したものである。

木附橋の姿が旧版地形図に記されていた!。現在の弁当沢トンネル旧道を出てすぐの橋だし、その先の綱取橋や綱取片洞門の道形を見てみても、この橋の記号は木附橋に間違いないだろう。木附橋はちゃんと旧版地形図にその姿を残していた。
木附橋は1942年(昭和十七年)11月竣功に対して、この地図は昭和16年部分修正測図。何となく時間軸が合わない気もするが、最終的にはこの地図は1943年(昭和十八年)三月発行なので、修正を間に合わせたのかもしれない。
てか、そうであってくれ。最近、机上調査が時間がかかって大変なんだ(笑)。

多くの人や車が様々な想いを胸に
渡ったであろうあの橋は
姿形を変えて姿がわかりにくくなった今も
そこに在り続ける

一般国道113号旧道
木附橋

完結。