新潟県主要地方道6号
山北朝日線
大俣橋・鍋割橋旧道
第5部(完結編)

2022年3月22日 探索 2022年5月12日 公開

紅白の車止めを乗り越えて、現道に合流した。あとはスタート地点まで現道を辿って戻るだけだ。でも、現道から旧道を俯瞰的に眺めることで、発見することもあったりするので、気は抜けない。この橋は蒲萄川を越える2つの橋の一つ、「鍋割橋(なべわりばし)」だ。最近の橋らしく、親柱も単純な角柱ではなくてモダンなものになっている。それぞれ銘板を確認していくことにしよう。

欄干までギリギリに寄せられたガードレールに隠されて確認しづらい。おまけにガードレールの高さと、親柱に取り付けられた銘板の高さがほとんど同じと来たもんだ。だが、私はこんなことでは負けない。これで引き下がっちゃ探索者の名が廃るってもんだ(←そんなに大したもんじゃない。しかも見えてるし)。さて、その銘板を読んでみると「主要地方道山北朝日線」とある。
「おお~」と声に出しながら眺めて視線を上にあげると、蒲萄川の向こうに旧道の姿が見える(右側に雪が残っているところが旧道の路盤だ)。

親柱を確認して反対側の親柱に向かう途中で立ち止まり、改めて旧道を眺めてみる。川岸を進む道はここから見ても実に風光明媚で、旧道が現役の時に通れたなら素晴らしい景色が見えたことだろうと思う。でも、こういった道には必ずと言っていいほど、路肩防護施設(ガードレールやガードロープ、あるいはデリニエータ)がない。夜間に通ると路肩の位置がはっきりとわからず、非常に怖かっただろうな。


こういった形で旧道になった道は、現道時代を想像するといい風景だっただろうなぁと言う道が多い。しかしそれは危険との背中合わせであり、そういった道に限って崖崩れや土砂崩れ、雪崩に路肩崩壊が起きたりして通行が出来なくなってしまい、復旧が追い付かずに廃道になってしまうパターンが非常に多いように感じる。


旧道の姿を確認しながら鍋割橋を渡り終えて親柱を確認してみる。思った通り、こちらもガードレールの高さと親柱に取り付けられた銘板の高さが同じで、見えにくいと言うところは同じだった。それでも覗き込んでみると、そこには「平成十六年五月竣工」の文字が見える。平成16年と言えば2004年。この年で一番大きな出来事と言えば、10月23日に発生した新潟県中越地震だろうか。竣工後半年足らずで発生した中越地震はこの付近も結構な揺れだったはずだが、竣功直後だったからだろうか、無傷で終わったようだ。

反対側の親柱を見てみると、この橋の読み方を記した銘板が埋め込まれていた。その名は「なべわりばし」。果たして「なべわり」とはどんな意味か。近くに家があって、そこで夫婦喧嘩があって奥様が投げた鍋が何かに当たって割れたから「なべわり」なんだろうか。
その時に投げた鍋は金属製だと割れないから、きっと土鍋だな。・・・などと、どうでもよくてバカなことを考えてみる。

ま、そんなことはどうでもいいのだが、これだけは言いたい。割れたのはおそらく「土鍋」だ(←しつこい)。

現道の鍋割橋を渡り終えると、ほどなく大俣橋が現れる。路肩には除雪車が寄せた雪の残骸が残り、まだ冬を感じさせる。若干右にカーブしながら蒲萄集落へ向かう現道が跨ぐ蒲萄川に架かる橋は現代の橋らしく道幅も広く、欄干も近代的な現代の橋だ。鍋割橋ほどあれやこれやとその名前について想像させることはなさそうだが(←失礼)、まずは親柱を確認してみることにしよう。

ここも鍋割橋と同じくガードレールによって隠されてしまう親柱の銘板だが、例によって隙間から見えるのと、親柱の道路側にも銘板が埋め込まれているのもあって調査は容易だった。その銘板に刻まれた文字は「大俣橋(おおまたばし)」。「俣」とは「別れるところ」と言う意味があり、それから考えると「大きく別れているところ」と言うことになるが・・・別れているところはないなぁ。大きな沢でも合流しているのかとも思って辺りを見回してみるが、それらしきものはなし。
しかるに「大俣」とは…角川地名大辞典で調べてみると、「大俣」には上記の「大きく別れる」の意味の他に「大きく跨ぐ」の意味があるそうで、もしかすると(しなくても)こちらの意味かもしれない。

もう一つの親柱を確認してみる。そこには「平成十七年十二月竣工」の文字が刻まれていた。平成17年と言えば2005年、鍋割橋の竣功が平成十六年(2004年)五月だから、大俣橋はそれより一年半後に竣工したことになるし、工事は寒川(かんがわ)集落側から進められたようだ。鍋割橋と大俣橋の間に迂回するような脇道はないことから、大俣橋が竣工するこの平成十七年(2005年)十二月までは、あの旧道が使われていたということになる。

大きく跨ぐのか、大きく分かれるのか(たぶん跨ぐから来ているのだろうが)の意味を持つ大俣橋。その橋の銘板にはやはりひらがな標記で「おおまたばし」の名前が刻まれていた。その下を流れる蒲萄川は、この先ほどなくして蒲萄峠方向から流れてきた「明神川」と合流し、「蒲萄川」として日本海を目指している。その水は雪解け水らしく、いかにも冷たそうだったが、山の栄養を海へと流すべく静かに流れていた。

大俣橋から旧道方向を眺めてみる。そこにはあの土砂崩れの擁壁を超えた旧道が、現道との合流を目指してこちらに向かっている姿が目の前にあった。2005年(平成17年)から切り替わった旧道は、17年の時を過ぎても蒲萄川の川岸を進む旧道の路盤がくっきり見えて「これぞ旧道!」と言う雰囲気の、実に気持ちいい風景だ。この後私は合流点に辿り着き、今回の探索を終えた。

この道が切り替わったのは、この旧道が交通のネックだったから。そして、途中に崖崩れや路肩軟弱があり危険だったから。切り替わった年月は平成十七年(2005年)十二月。これでほぼ間違いないだろう。この道が開通して、改良されることで海沿いの集落の寒川(かんがわ)とその付近のいくつかの集落は、例え時間がかかっても夜でも冬でも警察車両や消防車、救急車が来ることが出来るようになった。それは地元の方々にとって何よりも安心できたことだろう。
この道がなければ、海沿いの集落に何か有事が発生した場合は、寒川(かんがわ)集落の山形寄りにある勝木(がつぎ)集落まで行き国道7号に入るか、新潟方面に下って瀬波集落まで戻って村上市街地まで行くしかなく、孤立状態だったのだ。それをこの蒲萄寒川停車場線(現在の主要地方道6号山北朝日線)が結ぶことで解消した。だからこそ、この道はその後一般県道から昇格し、短いながらもシングルナンバーを付けた主要地方道になっているのだ。

補完取材の帰りにたまたま見つけた、旧道の入口。
その入口は、その時の私にとって「アメイジングゾーン」の入口のようにも見えた。結果、私はさっさと突入の準備を進め、いきなり探索が始まることになる。そこにあるのは自分の直感だけだが、途中で何か不測の事態(積雪が多いとか、崖崩れが起きているとか、路盤が消失しているとか)が起きれば、すぐに引き返すつもりでいた。そうなっても、雪が消えてからもう一度探索すればよろしい。この「危険と感じる感覚」と「引き返す勇気」は、探索を始めた当初の気持ちをずっと忘れずにいようと思う。

そしてこの道、実に楽しく素敵な道だった。
雪が消えたら、また行ってみたい。

その時は橋の近くで、割れた土鍋の
欠片でも探してみようかな(笑)

新潟県主要地方道6号
山北朝日線
大俣橋・鍋割橋旧道

完結。