新潟県一般県道393号
礼拝長岡線
沖見峠トンネル旧道
第10部(完結編)

2020年5月23日 探索・2020年8月18日 公開

ここからは、完結となる机上調査編に入る。
この沖見峠はこれまでレポートしてきた通り、またの名を「妙法寺峠」といって、三国街道の終着地の長岡から海沿いの柏崎へ向かう重要な街道だった。
まずは刈羽村側から調べてみよう。1971年(昭和46年)3月に発行された刈羽村役場から発行された「刈羽村物語」を紐解くと「刈羽村発展のあらまし」の中の「旧長岡街道と刈羽村」に、こんな記述がある。以下、引用する。

柏崎と長岡をつなぐ道路は、明治十一年に曾地峠ができるまでは、ずっと昔から妙法寺峠を通って、その頃の三島郡は宮本(現在の長岡市宮本)に出たもので、刈羽村を通らなければならなかった。(中略)明治十一年、明治天皇が北陸御巡幸の時には、曾地峠の新道が完成したので、これからは、人の通りがなくなって淋しい道になったのである。


また、同書の「第二章 各部落の歴史物語」の中には、このような記述もあった。

「慶長三年(1598年)妙法寺村内を割き別検地を行う」と刈羽郡案内にあるが、豊臣秀吉の太閤検地によるものかどうか、考証に足る文献はない。この検地によって妙法寺と分村したのである。元和二年(1612年)堀直之椎谷藩主となり、油田(あぶらでん)がその領内となった。

ところで、ここに出てくる「椎谷」と言う名称は出雲崎と柏崎の間にある椎谷集落のことである。この名称を耳にして、おや?と思われた方もいらっしゃると思うが、それもそのはず。あの一般国道352号が貫く椎谷鼻の「椎谷岬トンネル」と、その旧道の付近のことだ。


ふむ。これを見る限り、今は妙法寺が柏崎市、油田が刈羽村と違う行政区になっているが、大昔の江戸時代には妙法寺と油田は同じ村で「妙法寺村」と称していたようだ。だが、二つの集落の間には沖見峠があるので、同じ村とは言っても生活圏は分かれていたのかもしれない。

今度は妙法寺側から調べてみよう。
新潟日報事業社が2006年(平成18年)7月に発行した「新・にいがた歴史紀行」の「6 柏崎市 出雲崎町 刈羽村」の中の「宿駅妙法寺村と石油」に、このような記述がある。以下、引用する。

妙法寺村は、堀家椎谷藩領となった元和二年(1616年)から四年間同村超願寺に陣屋が置かれた地。石油湧出から如宝地(にょほうじ)と呼ばれたことに由来する地名とされ、集落に同名の寺はない。古来、長岡と柏崎両地方を結ぶ往還道の宿場町であった。ただし、佐渡へ行く北陸道(北國街道)の脇街道であり、明治天皇北陸巡幸時に曾地峠道が開かれると急速にさびれた。この脇街道を長岡側で柏崎街道、柏崎側で長岡街道と称した。(中略)宮本までは草生水川(妙法寺川)をさかのぼり、標高170mの妙法寺峠を越え、折渡・大積を経由。二里半は山坂で、人馬難渋の道であった。 妙法寺峠は日本海の眺望よく、室町期の連歌師宗長が「真帆片帆沖見の坂にみわたせば、旅寝の憂さも忘れこそすれ」と詠んだ地とされ、沖見峠とも称される。良寛も「霞みたつ沖見嶺の岩つつじ 誰おりそめしからにしきかも」と詠んだ。諸藩候の通行も時にはあった。

筆者注…前に引用した「刈羽村物語」の中での元和二年の西暦表記と、今回の「新・にいがた歴史紀行」の中の元和二年の西暦表記に4年の開きがありますが、原文のままとします。但し、調査した上では元和は1615年から1624年の間なので、元和二年は1616年ということになります。


この記述の通り、1600年代から通行があった沖見峠。但し、ここに出てくる沖見峠と呼ばれる道は、あの道標から左に分岐した旧長岡街道の道だ。今の旧県道となっている道はそれ以後に開削されたものだろう。途中に献上場があること、そしてその献上場で採取された原油などを天智天皇の即位七年(668年7月)に、越の燃土・燃水として献ずと日本書紀に記載があると現地の案内板に記載があることなどを考えると、以前より(実に1350年前まで遡る!)献上場までは道が開通していたものと思われる。但し、その頃の道は車道ではなく、登山道のような道だったと考えられるのだが。更に、西山町教育委員会が1977年(昭和52年)3月に発行した「宿場町妙法寺の文化」と言う本の中に、このような記述を見つけた。以下、引用する。

明治維新となると、宿場の制度が絶え、大名の参勤交代がなくなり、交通状況が次第に変化した。その第一は明治天皇が北陸巡幸により、曾地街道が開けて長岡街道が廃れたことである。長岡街道は1876年(明治九年)ころまでは県道であったが、県道は曾地街道に移行し、同時に妙法寺方面は村道に格下げされてしまった。
沖見峠に繋がる旧長岡街道。明治9年ころまではここが県道だった。

なにっ!県道から
村道に格下げ?!

こりゃまたびっくり(笑)。一度県道から格下げされたこの道は、現在の393号の旧道ではなく、長岡街道のことだろう。つまり、長岡街道は元は県道だったのだ。と言うことで、この道に関して新潟県の情報は何かないかと探してみると、新潟県立文書館のWEB「越後佐渡ヒストリア」に県道関係の記述を見つけた。それによると、1876年(明治9年)に新潟県は県内の宿駅(街道の旅客を宿し、荷物の運搬に要する人馬をつなぐ設備のあるところ)・里程(街道の距離・行程)と県道を調査し「新潟県宿駅里程県道等級管内里程書類」としてまとめ、これを1877年(明治10年)に内務省に提出している。長岡街道はこの時に県道から格下げされ村道になり、代わりに県道に昇格したのが曾地峠を通る道だったと思われる。


ところで1876年(明治9年)と言えば、太政官達第60号により明治政府から国道・県道・里道を定め、国道を3等級に分けると言う通達が出された時期だ。だが、この時点では国道の指定はされず、この後1885年(明治18年)に44路線を国道に認定。幅員を7間(12.7m)と定められた。これがいわゆる「明治国道」と呼ばれるもので、このあと1919年(大正8年)には初めて道路法と言う法律が制定され、その中で明治期の道路路線(明治国道)を廃止し、新たな国道を定めた。これがいわゆる「大正国道」である。この時には全国で64路線が指定された。


…なんか、沖見峠と曾地峠、因縁が深そうだ。
いやぁ、この道はなかなか濃いぞ!。はっきり言ってここまで濃いとは思わなかった!(笑)。
この旧県道の背後に長岡街道が控えていることがわかった時点で予感はしていたし覚悟はしていたが、まさかここまで濃いとは。こうなると、長岡街道と曾地峠も調査しなくてはいけないような勢いになっているじゃないか(笑)。
さて、更に読み進めていくと「第三篇 精神的文化」の第三章に沖見峠の記述を見つけた。以下、引用する。

部落の東はずれから道が二俣に分れる。右は平らな道、左は山道で、著者の少年時代には「これより右、山道  左、長岡街道と記した砂岩の道標があった。それは現在阿部忍氏の庭にあるが右山道は柏崎市小黒須や上古天智天皇へ献上した石油の発祥地、草生水の献上場への道であり、明治天皇が明治十一年ご巡幸になるというので部落費で新しく作った刈羽村油田への道で、左長岡道が昔の長岡街道である。

筆者注…引用の中に「部落」と言う言葉が出てきます。この言葉はいわゆる差別用語ではありませんが、差別に使われることが多いものの一つに挙げられています。もともとの「部落」の意味は「集落」を表す言葉で、地域によっては一般集落を「部落」と呼ぶことがあります(新潟県では結構多いようです)。その一方で、「被差別部落」を略して「部落」と呼ぶことも、広く一般化してしまっているのも事実です。引用する際にこの言葉の部分だけ「集落」と編集しようか迷いましたが、引用と言う性質上、原文のままとします。ご了承下さい。
また、引用の中に登場する「砂岩の道標は現在阿部忍氏の庭にある」と言う趣旨の記述がありますが、この道標は第9部の最初で紹介した砂岩の道標とおそらくは同じものと考えられます。よって、現在は元の位置に戻っているようです。


部落費で新しく作った
刈羽村油田への道?!

またまたびっくらぽん(笑)。なるほど。だんだん読めてきたぞ。
長岡街道は村道に格下げされたが、妙法寺集落の方々は「明治天皇の北陸御巡幸」と言うまたとない機会に乗じて、もう一度沖見峠をメジャーな道に昇格させようとしたのだろう。そこで部落費(今の町内会費のような性格のものだろうか)を使って、献上場から沖見峠までの新しい道を作ったのだ。
そういえば献上場から沖見峠へ向かう道は、それまでの道と印象を異にしていた。
覚えているだろうか。ここである。

いきなり道が狭くなって、何となく印象がガラッと変わった印象を受けたその原因は、これだった。
結果的に北陸御巡幸の際に選定されたのは曾地峠で、沖見峠は残念ながらここでもメジャーな道になることは出来なかった。で、この時の集落で切り開いた道が後に再度県道に指定、393号の路線番号が振られるが、道幅があまりにも狭いため「道はあるが狭すぎるので未開通」の扱いになってしまい、そのまま時代は平成の世へ。
そして2000年(平成12年)12月に現在の沖見峠トンネルが開通し、それまでの長岡街道や集落で切り開いた道とは違うものの、沖見峠は新潟県一般県道393号としてメジャーな道になれたのだ。
1876年(明治9年)に長岡街道が県道から村道に格下げになってから、実に123年の時間が過ぎていた。


文献を紐解いていくと、献上場までの道が歴史上に出てくるのが今から1350年前の668年と言う、とんでもない古参の道だった。その後に長岡街道が通り、長岡と柏崎を結ぶ非常に重要な道として発展するも、明治天皇北陸御巡幸に振り回されて主役の座を曾地峠に奪われ、以来長く県道の未開通区間として冷遇されていたが、沖見峠トンネルの完成でようやく表舞台に戻ってくる。

ただ、一つ謎が残った。それは、沖見峠にあったあの案内板の中に出てきた…

毛峠

長岡街道の最高地点とあるので、長岡街道は沖見峠のこの位置で交差して、毛峠へ向かっていたとも考えられる。そうすると本来沖見峠と呼ばれていたのは毛峠のことで、今の沖見峠はもともとの妙法寺峠の呼び名でいいんじゃないかとも考えられるが…。
ま、これは毛だけに継続調査としよう。

美しい緑に囲まれた、いい峠道だった
時代に翻弄されつづけたこの峠道が
長岡街道と共に後世に永く残ることを
心から願う。

新潟県一般県道393号
礼拝長岡線
沖見峠トンネル旧道

完結。