一般国道352号 旧道
中永隧道 後編

2018年12月24日 探索・2018年12月31日 公開

では、おなじみ机上調査編である。この中永隧道と、この旧道について、少し調べてみよう。

この隧道を含む、現在の国道352号の区間が初めて歴史上に登場してくるのは、1917年(大正6年)に刊行された「新潟県三島郡西越村是」に登場してくる(この西越村とは現在の出雲崎町を構成する町の一つで、今の出雲崎駅や町役場などがある中心地の旧自治体名である。この西越村と出雲崎町が1957年(昭和32年)6月20日に合併し出雲町となって、同日に出雲崎町と名称変更、現在に至る)。ここには長岡と出雲崎を結ぶ3つの路線が記述されているが、いずれも細い道だったようであり、この記述の中に以下の記載が見える。

「山路ニテ暫ク徒歩ノ通過ノ便アリト雖(いえど)モ未タ完全ナル車道ノ開鑿(かいさく)ヲ見ス」
(出雲崎村史 通史編第1章第5節より一部引用)


訳すると、「山路でしばらく徒歩で歩くと通過できる道があるんだけど、完全な車道ではないんで、車道が必要なんだ。でも、いまだ作られていないんだよ」
意味はこんなところだろうか。早く作る必要があるよ、と言うことが言いたいと思うのだが、これが中永線(のちの新潟県道出雲崎長岡線)のことを指していて、中永線はこの後1923年(大正12年)に測量が行われ、着工するのは1925年(大正14年)のことである。起点は出雲崎町、終点は長岡市、三里十一町五十六間の延長だった。ところが予算の問題で工事が遅れ気味になり、この中永線は一部が開通しただけで太平洋戦争に突入することになる。そして、この道の峠を貫通する中永隧道は、1939年(昭和14年)に現在の長岡市側(旧三島町、大津村)から着工されたとの記録があるが、西越側(現在の出雲崎町側)はわずかに掘られただけで工事中断となってしまった。
この中永隧道が貫通するのは1951年(昭和26年)7月21日。実に着工から12年の歳月をかけて、延長340m、幅員4.7m、高さ4.5mの中永隧道は貫通する。なお、中永線全体の開通は1954年(昭和29年)のことであった。

だが、中永隧道を含むこの道は開通こそ迎えたものの、その道は急カーブの連続で道幅も狭く、ところによっては自動車のすれ違いも困難なほどの道だった。土砂崩れや雪崩も頻繁に発生し、そのたびに通行止めが続いた時期があったとの記録がある。
例えば、1958年(昭和33年)12月28日には道路2カ所が崩れて通行止め、復旧は翌年1959年(昭和34年)5月だったり、その他の年にも土砂崩れや雪崩、集中豪雨などでの災害の連続であった。これらのことを踏まえて昭和40年代前半に集中工事が行われ、この県道はやっと冬季の通行止めがない道路に変身することになる。この頃には前編の冒頭の案内板にあるように、路線バスも走るようになっていた。

このあと、中永隧道を含むこの区間は1982年(昭和57年)4月1日に一般国道352号として延長指定され、2001年(平成13年)3月には、新しく開通した現在の中永トンネル(延長1879m)に現役のバトンを渡し、中永隧道を含む旧中永線の峠区間が旧道となる。また、旧三島町側にある中永雪覆工には、あの田中角栄元首相による直筆銘板があるとの情報もあるが、現在は立ち入りが出来ない為に見ることは出来ない。
これはぜひ見てみたい気もするが…。
なお、この通行止めになっている旧中永線の峠区間は前編で掲載した地形図の通り、現在でも道路として存在していることになっている(道路の用途廃止を行っていないため、国土地理院の地図に今でも表記されている)。

難工事の末開通して、開通した後も山崩れや雪崩などの災害と闘い、今は静かに休んでいる隧道。
「長い間、お疲れさま」と声をかけて、この隧道を後にした。

一般国道352号旧道
中永隧道

完結。