一般国道351号旧道
榎峠・比礼隧道
第7部
2019年5月2日 探索・2019年7月7日 公開
前回、比礼隧道の竣功年月を調べるために県立図書館に向かった私だったが…残念ながら、「道路概要1964」にはその記述がなかった。
この道は確かに新潟県一般県道336号北荷頃長岡線として認定されているのにも関わらず、である。
これには困った。正直、記述があるだろうとアテにしていた部分もあるのだが、記載がないとなると他の方法を考えないといけない。そこでお馴染み「全国隧道リスト」を見てみたが、比礼隧道のはずが「榎隧道」となっており、竣功は昭和33年(1958年)となっている。
ここで私の悪い癖が出た。「そんなはずはない。竣功はもっと前のはず」。
これは、前回で昭和6年(1931年)修正測図の地図を見て確認したことも大きな要因だった。昭和6年(1931年)修正測図の地図に記載されていたと言うことは、竣功は少なくともこれより前なことは明らかだ。しかし、「道路概要1964」には掲載されてない。さてどこから調べよう…と考えたら、この道は「石油の道」と呼ばれていたことを思い出した。すると、ここから調べていけば辿り着けるんじゃないか。そういえば、浦瀬町で見た案内板に…
ふむ。比礼鉱山、浦瀬山鉱山を経て県道へ通じる新道が明治30年(1897年)秋、完成したとある。答えはここにあるような気がするが、この裏付けが欲しい。そこで、石油の道として県立図書館の資料を漁ってみると、ある本に行き着いた。佐々木一禄氏著「石油の里」という本がそれで、まさしくその答えがすべて記述されていた。これを要約すると、以下のようになる。
比礼や浦瀬の鉱業地から浦瀬集落を通過する県道までの工事は難工事で、半ば完成した路盤が長雨で1400メートル弱にわたって決壊が発生するなどしたが皆で力を合わせて復旧し、総延長4500メートル余りの新道の完成に成功した。このことに関しては、このような記述もある。
この後、明治31年10月2日に古志郡東山興油利開新道記念碑の除幕式典が行われていること、また上記の記述の中で「隧を闢(ひら)く四百二十尺(127メートル)。明年夏将に成を告げんとす」とあることから、比礼隧道の竣功は明治30年夏ごろと考えられる。その後、比礼隧道は幾度かの改修を経て現在に至るもので、多くの資料に「昭和33年(1958年)竣功」とあるのは、おそらく現在の姿に改修された際の竣功年と考えられる。
また全国隧道リストによると、新潟県一般県道336号北荷頃長岡線にある「榎隧道」(これは比礼隧道のこと)の全長は91メートルとなっており、「隧を闢く四百二十尺(127メートル)」と全長の数値が合わないが、これは隧道前後の接続道路も入れた長さと考えられ、隧道自体の全長はおそらく竣功当時と変わってないだろう。
この浦瀬町から比礼隧道を抜けて比礼集落までの間は、現在も多くの油田の鉱山跡が残っているが、今では想像もつかないほど多くの方々が住んでいて、隧道手前には浦瀬小学校の分校もあり、温泉が湧き出て湯治場もあったりと非常に栄えた地域だった。当時の写真などを拝見すると、現状からは想像もつかず信じられないほどである。その後、浦瀬鉱場は平成6年(1994年)まで操業を続けたが、それまで多くの人たちが、私が浦瀬町から上がってきた道を使って生活してきたことだろう。
山から下りて買い物に行く人、また山へ品物を届けに行く人など様々な人たち。小学校もあり病院もあり、多くの人たちが比礼隧道を通っていた。まさしく人々の生活に密着した、地域に無くてはならない大切な隧道だったことが、今回の調査を通してよくわかった。だからこそ、今でもこの隧道はきちんと管理され、残っているのだ。
またいつか、会いに行きたい。
その遥かな歴史と共に今も佇む、
この明治生まれの隧道へ。
一般国道351号旧道
榎峠・比礼隧道
完結。
…と思ったら、
まだ終わっていなかった!