一般国道351号旧道
榎峠・比礼隧道
第6部
2019年5月2日 探索・2019年7月3日 公開
前回の最後、この画像の地点から先へ進もう。この旧道が現道に合流するまで、ここからもうそんなに距離はないはずだ。地図を見るとわかっていただけるが、この比礼隧道は浦瀬町側から入ると距離が非常に長い。天候が良ければ風向明媚な景色を眺めることが出来る。
先ほどの「降雨時通行止」の標識から先へ進むと、歩いたり自転車で走ると気持ちいいだろうなぁと言う感じの、実に雰囲気の良い道が続いていた。私は花や木には詳しくないが、道路の路肩に立つ木がもし桜なら、この道の春は美しいだろうなぁ。左わきの空き地で花見したい気分だ。
木々の間を抜けて先へ進むと、山の斜面を切り取ったような、いかにも旧道然とした道が続く。路肩には強固な擁壁が作られて道を守っているが、あの部分は以前に崩落したことがあるのかも。探索当日は5月でありながらなかなか暑い日で、この日陰でしばし休憩。麓のコンビニで買ったお茶を一口飲むと、爽やかな5月の風が辺りを吹き抜けた。おかげで私の身体も一気にクールダウンする。
休憩中に左の山側を向いて撮影。右側には農道だろうか、森の中から降りてくる作業道らしき道が見える。この辺一帯の谷になった低地周辺は棚田だったみたいで、今でもそのあとが残る。耕作されていないようだが、その当時は素晴らしい風景だっただろうと偲ばれる。
右の擁壁の上を走る道が旧道、その下を走る農道。何も知らずに現地を見れば、どっちが旧道なのかわかりにくく、ブルーシートが見える農道が「路肩崩落か?!」と思ってしまうかもしれない。こうしてみると、旧道は山の稜線目指して一直線に向かっている。
さぁ、旧道に戻り進んでいこう。道はよく管理されており、この旧道が今でも現役であることを教えてくれる。路肩が擁壁で守られた向こう側には、さほど高さはないが玉石で組まれた石垣も見える。なかなか風格がある石垣のようだが、単に住宅の敷地をかさ上げするために組まれたものか。
振り返って撮影。こうしてみると、いかにも旧道然とした緩やかな勾配が目に付く。そういえば、この道は浦瀬町の交差点にあった石碑によると、石油の道だったと言うことを思い出した。多くの人たちがここを通った明治時代、県道として多くの車が行き交う時代、国道となって新榎トンネルが完成して旧道となったそれぞれの時代を想像すると、なかなか楽しい。
分岐点に出た。左の道は比礼集落の中を通り、最終的には右の道へ合流する。ただ、比礼集落の中を通る左の道は道幅は非常に狭い。対して右の道は旧国道351号。少し先に左カーブが見えるが、そのカーブの先で道幅は非常に広くなって現代の道へと変化を遂げ、さほど距離はなく新榎トンネル直前の現道に合流する。
ここからは机上調査編。
まずは過去の地図を見てみることにして、1931年(昭和6年修正測図)長岡の地図を見てみよう。
上側が点線の聯路(れんろ)で記されており、幅員2メートル程度の道。榎峠を通る石油の道は、同じく長岡から森立峠(もったてとうげ)と軽井沢集落を経由して栃尾を結ぶ道と並んで、重要な道だったようだ(道幅は当時は森立峠経由の方が広かった。この森立峠経由の道が、現在の新潟県一般県道9号長岡栃尾巻線となっている)。比礼隧道を通る石油の道が開通したのが明治30年。この地図は昭和6年なので記されていて当たり前なのだが、問題は榎木峠と記されている場所である。拡大してみると…
隧道の記号があるっ!
てことは、この隧道の竣功年月日は昭和33年8月などではなく、それよりはるか昔であることが明らかになった。少なくともこの地図は明治44年測量・昭和6年修正測図であることから、もしかするとこの道が開通当初から存在していた可能性がある(←それはすごく自然なことだが)。
そうなると、ここで見なきゃいけない資料はやはり「道路概要1964」だろうか。この資料なら、県道時代の榎峠・比礼隧道の記録が見れるだろう(←たぶん)。と言うことで、私は新潟県立図書館へ向かった!。