一般国道345号
小名部トンネル旧道

第5部(完結編)
「小鍋と小名部」

2023年9月30日 探索 2024年2月19日 公開

小鍋と小名部

おおっ!現道だっ!

前回の最後で「あと5分もかからないかな」と踏んだヤブ漕ぎの時間は予想通り。ほどなくヤブを抜けて現道と合流する。これまで聯路のような道や見事な崖、素晴らしい下草のヤブと、いろいろな風景を見せてくれて私を楽しませてくれた探索も、もうすぐ終わりとなると何だか寂しいもんだが、さっきまで「ヤブを漕ぐのにも少し飽きてきた」などと言っておきながら終点が見えるとこのありさまで、調子がいいもんだと自分で自分が可笑しくなる。

さて、その出口は御覧の通り、人一人が出られる踏み跡のような道が現道に向かって合流するような造りになっている。廃道当初はこんな風になっていなかっただろうし、通行止めの柵も標識もないことから、もしかするとこちらの旧道も通行できるようになっていたのかもしれない。それが時間が経過するごとに旧道を通る車も(もとより少ないのに、更に輪をかけて)少なくなり、やがて下草が茂って通行できなくなってしまった、のかなと考えた。それなら通行止めに対して行う柵などの処置がないのも頷ける。

そうこうする中でも歩みは止めなかった私は、ようやく現道に辿り着いた…なんてかっこいいものではないが、ひとまず無事に旧道部分の探索を終えられた。出口の道幅はやっぱり人一人分しかないし、そこには柵も通行止めの標識もない。そうなると、本人(この場合、旧道)が知らないうちに、廃道になっていたということになりはしないか。それは少しかわいそうな気もするが…

だが、その合流部分は昔はすごく広々としていたことが伺えるほど、開放的な場所だった。詳しくはヤブから出て眺めてみないとわからないが、トンネル掘削時に現地事務所などの施設があったからなのかもしれない。

さっきまで私が「合流点」と言っていた、関川側の分岐点がこんな感じ。小名部トンネルの工事が鼠ヶ関側からか、関川側から進められたかは判然としないが、関川側に現地事務所があったとしたなら、たぶんここだろう。

正面に小名部トンネルの坑口が見えるが、その左脇は森になっている。だが、旧道からここに出てくると、この一帯が広場になっていたことに気づくと思う。それだけここの場所は広く感じられるのだ。それに、現道と旧道の分岐点にある側溝に、ちゃんと通行できるように蓋が設置してあるところが泣かせるじゃないか。こんな演出(?)がされているなら、突っ込んで行かざるを得ないだろう。そう思わないか?。
さぁ探索終了だ。それでは現道の小名部トンネルを眺めて戻ることにしよう。

現道の小名部トンネルの坑口だ。真っ白なコンクリートが眩しい、いかにも現代のトンネルと言う感じで、これはこれで美しくもある。坑道の壁が黒くなっているのは、おそらくこの山の水分によるものだろう。それに、坑道が中で左にカーブしている。旧道もここから見るとやや左にカーブしている形で進んでいるので、旧道に沿う形でトンネルが掘られていることがよくわかる。このトンネルになぜか惹かれてしまい、今まで見てきた現道のトンネルの中でも5本の指に入るほど好きなトンネルに仲間入りしてしまった。

トンネル坑口左側に埋め込まれている銘板。事業主体は山形県。一般国道なので地元自治体になっているのは不思議ではない。国道と言うと管理しているのは国(国土交通省)と思いがちだが、実は一般国道を管理しているのは地元自治体なのだ。だが、中には国(国土交通省)が直接管理している国道もある。これを「直轄国道」と言う。この直轄国道の場合は(おそらくだが)事業主体が国土交通省東北地方整備局になるだろうから、ここが一般国道であることがわかる。
竣功は1988年12月、実に今から35年前だ。と言うことは、私がいま通ってきた道は旧道になってから35年もの長い時間を過ごしてきたことになる。それは探索を始めた地点にあった「小俣口橋」も同じことが言える。竣功の時に生まれた子供は35歳。立派な大人だ。その子供にいろんなドラマがあったように、この旧道にもいろんなドラマがあったことだろう。今まで残ってくれていてよかった。こうして通行することが出来たのだから。

小名部トンネルの扁額を撮影してみた。達筆で「小名部トンネル」と彫り込まれてある。残念ながら、この文字を書かれた人が誰なのかはわからなかったが、今のフォントを使った扁額より随分いいと思う。それに、書いていて気付いたが坑口のエッジが利いていてカッコいい。思わず見とれてしまった。


さて、こうして探索は終わったわけだが、一つ謎が残っている。それは「小名部」の名前の由来だ。第1部でも少し書いたが、いろいろ考えていてひらめいたのは、鍋倉集落と小名部集落だ。この二つの集落は少し離れてはいるものの、隣同士の集落でもある。もしかして小名部の漢字は昔は「小鍋」だったのではないか。そうすると鍋倉は様々な鍋をしまっていた建物があったから?などと考えていたのだが、ここで登場するのは角川日本地名大辞典。早速これを調べてみると、こんな項目が見つかった。

旧国名:出羽
庄内地方,江戸期には小鍋・小名辺とも書いた(御知行目録・元禄郷帳)。
越後国境の山日本国の北東山麓で鼠ケ関(ねずがせき)川の中流に位置する。
地内桂谷から縄文中期の土器片が出土する。
【小名部村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
【小名部(近代)】 明治22年~現在の大字名。

やっぱり!。江戸期には「小鍋」とも書いたとある!。てことは、鍋倉は鍋の倉があった故の地名だったのか?!。そう思って再度地名大辞典を「鍋倉」で開いてみたが、その記述は残念ながらなかった。だが鍋の倉があったということは私は信じたい。で、そこに収納されていた鍋の一部が小鍋で、それをよく使っていたのが小名部集落なんだと(笑)。

以上は、私の全くの推論である。どうか事実として信じないで頂きたい。ただ、こうしていろいろ考えてみるのも非常に楽しいと言うことで、それは道路と、その道路が地域にどういう形で役に立っていたかということを考えるときに、このひらめきは非常に重要かもしれないということで書いてみた。


さて、こうして「大針洞門」を中心とした山形県鶴岡市周辺の探索が終わったが、自宅に戻って画像整理などをしていて、大針洞門で何か情報はないかといろいろ調べていた時に、私はくやしさのあまり、PCの画面の前で思わず叫び声をあげることになる。その原因はいったい何なのか。それはこの後に続くレポートが答えになるので、楽しみに(?)していただきたい。

鍋倉と小名部。一見すると繋がりは全くないようにも思えるが、その昔は小名部が「小鍋」と記されていた時代があったことを考えると、そういうわけでもないようだ。しかも、現道上でもこの二つの集落の名前を記したトンネルが存在すると言うことは、何か切っても切れない縁のようなものがあるのかもしれない。

これからしばらく、何度もここを通ることになると思う。
その時にはまた立ち寄ってみようかな。

一般国道345号
小名部トンネル旧道

完結。