一般国道345号
小名部トンネル旧道

第3部
「聯路の風景」

2023年9月30日 探索 2024年2月11日 公開

聯路の風景

さ、いよいよヤブ漕ぎの始まり!…とは言えど足元の草だけなので、ヤブと言っていいものかどうか…少々物足りない自分がいるが、まぁ仕方ないだろう。御覧のようにヤブと言えど下草だけなので、踏みしめて進んでいくのはいいがその感触は非常にフカフカしていて、トシのせいかやや膝が痛くなってきた身としては非常に楽でありがたい。この下草に覆われた路盤の右の谷側は竹藪、左側は山の広葉樹の森になっていて、歩きながらキョロキョロしていると、昔の聯路(れんろ)の時代もこんな道だったのかなぁと思わせてくれる。やっぱりこの道、昔の里道、それも聯路の面影をよく残しているとも言えるかも。通っていて実に楽しい。

いいねぇ(笑)

これはたまらん!。両側に迫った木々と竹、路面を覆う下草。路面の部分だけスッパリと、モーゼの十戒のように拓けた様子を見ていると、まるで廃線跡のようにも思える。これもやはり下草が定期的にきちんと刈り取られているからだろう。この道を歩きながらいろいろ考えていると、もしかしてこの道は仮定県道だったんじゃないかと言う考えがひらめいた。

ここで「仮定県道」と言うワードが出てきたので、これまでも何度か引用する形で書いているが、ここでも仮定県道について少し触れておこう。これまでに読んだことのある方は、読み飛ばしていただいて大丈夫だ。


日本で道路法が正式に成立したのは1919年(大正9年)だが、その前の1872年10月(明治5年)には道路法の基になる「道路掃除条目」いわゆる道路掃除法を公布、各府県地方官(下記の注釈を参照)に対して道路の維持管理の徹底を図っている。更に1873年(明治6年)8月には河港道路修築規則が各府県に布達。これは河川、港、道路をその重要度に応じて一等から三等までに分け、その等級ごとに修築費用の国と県の分担割合を明確にしようとするものだった。この中で道路を一等から三等に区分して工事の経費分担を定めたが、このうち一等道路は東海道や中山道などの主要街道、二等道路はそれに接続する脇往還で、一等二等とも工事は地方が行い費用の6割は政府が、4割は地方が負担することになった。三等道路は主に地方の村内の道路で工事は地方が行い、その工事費用も利益を受ける地方や地元の負担となったが、各級道路の認定は地方任せであり、費用負担をしなさいと言われた地元自治体としても予算の裏付けが出来なかったため、計画通りには実施されなかった。このため一等道路でも雑草が生い茂る始末で、三等道路ともなると通行することさえ困難な、まるで獣道のようなところも多かったとされる。新潟県でも河港道路修築規則の布達を受け、県内の道路を幹線と支線に分けた上で更に幹線を一等と二等に区分、その支線を三等として道路改修を企画した。そして、その調査資料として各地区の戸長に当該地区の道路や橋梁の実態を報告させている。

1876年(明治9年)6月8日。この日に太政官達第60号「道路ノ等級ヲ廢シ國道縣道里道ヲ定ム」が発せられたが、この日は国道、県道と言う言葉が道路法制に初登場した日だ。この日、太政官は1873年(明治6年)に定めた道路の等級を廃止して、道路を国道・県道・里道の三種類に区分し、更にそのそれぞれを一等から三等に分けた。例えば県道については、一等は各県を接続するもの、及び各鎮台(当時の陸軍の地方部隊)と各分営を結ぶもの、二等においては各府県の本庁と支庁を結ぶもの、三等は地区の中心地から港や駅などの主要地を結ぶものとしたが、里道の規模や位置づけに関しては今の考え方とはかけ離れていて、今で言う都道府県道から市町村道の範囲に相当する、非常に広い範囲のものだった。
この太政官達第60号の示達に基づき、政府(内務省)は国道、県道の路線を認可するための資料を府県に提出させたが、このとき里道に関しては報告義務なしとなった。また、この資料は国道においてはおおむね提出されたものの、県道については十分な資料の提出がされず、その数も多かったことに加えて起点・終点の確定に多くの時間を必要としてしまったため、その調整に手間取ってしまった。そこで、県から申請があった県道の道路に関しては、追って調査して認可するまでは正式な県道として定められないと言うことになり、(仕方ないので)暫定的に認可することになった。これがいわゆる「仮定県道」と言われるもので、1919年(大正8年)に道路法が出来ると、そのほとんどが県道となって仮定県道と言う呼称は消滅した。 余談だが、この大正8年に施行された道路法の中で指定された国道が、いわゆる「大正国道」と呼ばれるものだ。

ところで、内務省は明治後半から大正初期にかけて、仮定県道路線の認可をかなり厳しくした。その結果、各地方では県道の認可基準に達しない里道を県知事が管理して、その費用は府県費で管理する道が次々と開削されるようになる。
要は「道路を作んなきゃいけないんだけど、県道扱いにすると国に対して申請だの認可だのと面倒だし、仮定県道になるとなおさら大変だから、それなら県道の基準より少し低くした道にして扱いを里道にして新しい道を作ろう。管理とお金は県で面倒みるよ」と言うようなことだ。これが「府県費支弁里道」で、仮定県道の認可が内務省の承認が必要だったのに対し、里道はその必要がなく府県知事で判断・決済できるため小回りが利き、府県費支弁里道は増えていくことになる。このように小回りが利いた府県費支弁里道も、前述の1919年(大正8年)の道路法成立で多くは県道に、一部は郡道や市町村道になった。また、この他にも府県費支弁里道と同じような性格を持つものとして郡費支弁里道村費支弁里道などがあったが、郡費支弁里道についてはそのほとんどが「郡道」へ、村費支弁里道についてはその多くが「村道」となっていった。この国道の前身の道は、旧版地形図を見ると二重線で片側細線になっている。この記号は、この頃の記述式では「主要ナル府縣道」であり、重要な道であったことが伺い知れる(但し、この様式で記述されているのは鍋倉集落の先にある小名部集落を経て平沢集落までで、そこから先、途中まで道幅1m以上の町村道として、それ以降は関川集落まで道幅1m未満の破線の小径(こみち)として記載されている)。


そう考えると、多くの人たちがここを通ったことと思う。華やかだったこの道筋を今、私も歩いていると言うことになり、非常に感慨深い。こうして残ってくれていてよかった。

頭上に電線が走る旧道。路面に草が茂るこの道、山側には気をつけないといけないな。斜面から黒くて大きな動物(←クマ)がヌッと出てきたらシャレにならないもんね。それに若干だが路面が泥濘んでいるようにも思える。なんだかヘビさんがいそうな雰囲気で、長靴を選んだのは正解だった。鉄板入りの安全長靴なので、つま先に限って言えばヘビが噛みついたとしても貫通しないもんね(最悪、ヘビの歯が折れるだろうし)。

路面一面に隙間がないほどびっしり生えた下草あてあての真ん中に、何やら踏み跡らしき跡が見える。今でも少なからず徒歩で通行する人がいるようだ。例えば、ここをのんびりと毎朝散歩出来るなんて、実に素敵だと思うが…クマがねぇ(汗)
路肩の、路面に近いところに見える電柱は後世に建てられたものだろう。現道時代にこの電柱が建てられていたら事故が多発すること請け合いだ。

右側の竹藪の向こう側に流れている鼠ヶ関川。雨上がりで多少濁っているが、普段は透き通ってそこが見えるほどの清流と聞く。聯路(れんろ)だった頃は当然牛馬が荷車を曳いて通行していただろうから、休憩の時にはこんなに茂っていなかったであろう竹藪を抜けて川岸までいき、鼠ヶ関川の清流で喉を潤していたのかもしれない。その光景は実に長閑な風景だっただろうなと思う。近くに馬頭観音がないかと探してみたが、見当たらなかった。

古くは聯路だった道。左の山側は削ったままの山肌がむき出しの、いかにも時間を重ねた感じの重厚な斜面が続いている。対して、右の鼠ヶ関川側は、電柱に電線が敷設されているものの、それ以外は昔ならではの風景が続く印象深い道が続いている。いつも思うことだが、こうした道は簡単なハイキングコースなどにすると道も保たれ、なおかつ観光資源にもなり、渓流釣りをされる方にも利点があるんじゃないかと思うのだ。こうした危険と隣り合わせの道と、そこにある自然を保全することは非常に大変なことだとは思うが、一度検討してみて頂ければと行政の方々に切にお願いする次第だ。こうした道には必ず何がしかの歴史があり、その歴史を知ることは地元の子供たちにも非常に有益だと思うのだが…。

第4部
「空と路面のあいだに」へ