一般国道345号
鍋倉トンネル旧道 第5部
(完結編)
大正国道と主要ナル府県道」

2023年9月30日 探索 2023年12月17日 公開

大正国道と主要ナル府県道

さて、トンネルを通ってベース地点に停まっている車に戻る前に、このトンネルの銘板を確認しておこう。竣功年月は1993年9月。この記事を書いている今が2023年9月なので、現道に切り替わったのはちょうど30年前。それにしては極端に廃道化することもなく、途中では山側の斜面が崩れた跡があったにも関わらず現在でも通行できたのは、あの共架されていた電線の管理道とされていたためか。

全長は255.4m、普通に歩くと5~6分で歩ける距離を、およそ5~6倍もの時間をたっぷりとかけて歩いていく。季節によっては自然と戦いつつ、クマなどの自然動物の影に怯えながら、その道が栄華を極めていたころを辿り、その頃を知るための旅を続ける…。私は当分、やめられそうもない。

全長250m強のトンネルを通り、探索を始めた地点に戻ってきた。前方左の路肩に、ベースとなって主の帰りを待つ私の車が見える。長距離を走るにも遥かに楽になり、パワーもあって走りも良く、長距離の燃費はリッター20キロを軽く超える、私の相棒ともいえるヤツだ。その相棒の姿を隠すようにガードレールが左側に入っているが、これが現道と旧道の分岐点だ。このように分岐点は閉鎖されているわけではなく、今でも入ろうと思えば入れる仕組みになっている。ただし、その入口は…

こうなっている、という訳だ。今から30年前のこの道は、そばを流れる鼠ヶ関川にぴったりと沿うように進んでいたんだろうな。この旧道、一見すると途中までは別にトンネル他に穿つ必要もない、きちんと整備された通行しやすい道のように思えてしまい、なぜ旧道になり廃道化してしまったのか不思議でもあったが、廃道化したヤブの先はやはり山側が崩れることによって道幅が狭くなり、通行しにくくなっていた。

こうした道に付き物の、廃道となった理由。それは実にスタンダードともいえる「がけ崩れ」と言う自然現象が、この道に引導を渡した張本人でもあった。同じような理由で廃道になった道は、これまでいくつも見てきたはずなのに、この時ばかりはなぜか複雑な気持ちだったことを覚えている。その理由は、この道の途中の風景が美しかったためか。それとも突然目の前に飛び込んできていきなり探索が始まったためか。理由は今もわからずじまいでいる。
国道7号の補完路線として、もう少し整備してあげればいいのに、とも思うが、つい最近まで整備を続けていた新潟県内の345号を思うと、それはもう少し先の話なのかもしれない。ひとまず日本海東北自動車道の方が先だろうし…ね。

さて、探索を終えて帰宅してから、この道の付近の旧版地形図を調べてみた。昭和九年修正測図とあり、西暦に直すと1934年。今からおよそ90年ほど前の地形図である。この頃から海側を走る国道7号はしっかりと太い二重線で記載されているのがわかると思う。ところで、この頃の国道7号は果たして国道7号だったのだろうか。何やら意味不明な言い回しをしているが、この国道7号は大正国道でいうところの10号だったのではないかと言うことだ。そこで少し調べてみると…


「大正国道」とは、1918年(大正7年)の帝国会議で成立し、翌1919年(大正8年)に戦前の道路整備の基本法となった道路法(大正8年4月11日法律第58号、旧道路法とも呼ばれる)で定められ公布された国道のこと。この大正国道は、その第十条で国道を「東京市より神宮、府県庁所在地、師団司令部所在地、鎮守府所在地又は枢要の開港に達する路線」として定義していた。つまり全ての国道は、東京の日本橋を起点として国内の他の地点へ至る路線だったということになる。この中で現在の国道7号は内務省告示第二十八号において、「国道ノ路線左ノ通認定ス」の中で次のように国道10号線と指定されていた。告示日は大正9年4月1日。

その内容は「十号 東京市ヨリ秋田県庁所在地ニ達スル路線
経過地 九号路線(高崎市本町ニ於テ分岐) 長野県北佐久郡西長倉村 長野市 長野県上水内郡若槻村 同県下水内郡飯山町 新潟県北魚沼郡小千谷町 長岡市 新潟市 新潟県北蒲原郡新発田町 山形県西田川郡鶴岡町 同県飽海郡酒田町 秋田県由利郡本荘町」

次に道路法の改正がされたのは昭和27年なので(この時の道路法が現在でも使われている)、この地図の時には大正国道の時代だったということになる。

ところでもう少し大正国道を掘り下げてみると、その大正国道のトップナンバーである国道1号が結んでいた先は伊勢神宮で、現在の国道1号が東京と大阪という二大都市を結び、大正国道以前の明治期に制定された明治国道の1号が東京と日本で初めての開港地の横浜を結んでいたことを考えると、経済的な合理性「以外」の観点で道路網が組み上げられていたことが伺える。また通常の国道以外に、第十条二項に「主として軍事の目的を有する路線」があり、これらには「特〇号」という別番号が設定された。この国道は今では軍事国道と呼ばれることが多いが、必ずしも軍専用の道路であったわけではなく「特号国道」とでも言うべき路線だった。
ちなみに、この特号国道のトップナンバーである特1号は、1614年(慶長19年)に徳川家康が五街道の整備に先立ち造成した御成街道、現在の千葉県主要地方道69号長沼船橋線である。


と言うことで、やはり国道10号だった。そして、我らが345号はもちろんこの頃は国道ではなかったが、地図の記号を見ると二重線で片側細線になっている。この記号は、この頃の記述式では「主要ナル府縣道」となっていて、この頃から重要な道だったことが伺い知れる(但し、この様式で記述されているのは鍋倉集落の先にある小名部集落を経て平沢集落までで、そこから先、途中まで道幅1m以上の町村道として、それ以降は関川集落まで道幅1m未満の破線の小径(こみち)として記載されている)。

なるほど、今は一歩間違えると酷道ともいえるような345号だが、なかなかに歴史のある道だったようだ。ちなみに、地図中で中央に「念珠關村」と記載があるが、これは「ねずがせき」と読む。そう、現在の鶴岡市鼠ヶ関の元々の呼び名は、この名称だった。

この旧道の探索を終えて車に乗り込むと、時刻は11時半を過ぎていた。
いけない、先を急がないと。今日の本来の探索予定地は、ここよりまだ遥か先の鶴岡市内の外れだ。この道沿いにも探索したい箇所はいくつもあるが…それはまた今度、集中的に探索することにしよう。少なくとも3か所は探索したい場所がある。
こうして私は本来の探索予定地へ向かうべく先を急いだのだが、今思えば、これがいけなかった。何がいけなかったのか。そのお話は、また今度。でも、それをお話する日は、そんなに遠い日のことではないと思う。

古くは「念珠關村」と呼ばれていた鼠ヶ関。源蔵山の裾野を回り込んで、山間の集落である鍋倉へ向かう道は、古くから府県道として整備されていた重要な道だった。だから…

なるほど、こんな立派な道だったわけだ。この旧道の一番のベストショットは、間違いなくここだろう。数多くの旅人や、昭和30年代後半には三輪車のミゼットやボンネットバスが走っていたかも。想像すると目の前にその風景が拡がるようで、非常に楽しい。

また一つ、この風景を目に焼き付けて、私は次の探索地に向かう。
次はどんな風景が見れるか、それも楽しみだが…

帰りにもう一度寄ろうかな(笑)

一般国道345号
鍋倉トンネル旧道

完結。