一般国道113号旧道
川口橋 第3部
2021年3月4日 探索 2021年4月7日 公開
鷹の巣への道
第1の目的であった川口橋を過ぎて、第2の目的であるこの区間の旧道の探索に入る。その昔、旅人が休んだであろう家々の街並みを過ぎると、このような場所に出た。ここは旧道が米坂線の下をくぐり山越えの道筋に向かう道筋に転ずる地点だが、そこにあったのはこのような立派な石垣が組まれた場所だった。この石垣がいつ組まれたのかはわからない。ただ、それほど新しいものではなさそうで、私はこの石垣に出会えた瞬間に思わず「おおっ!」と声を上げてしまったほどだった。
実はここは米沢街道の鷹の巣峠への入口で、今は雪に埋もれてしまっているが、ここから右上に上がると旧米沢街道に入っていく。その道は米沢まで13の峠を重ねる難所中の難所ともいえる区間の始まりだ。
角度を変えて撮影してみる。御覧の通り、今では出来ないだろうという言葉が出てくるくらいの重厚さを複雑さ、貫禄を併せ持った見事な擁壁だ。それぞれの丸石の組みの隙間に生えた苔がなんともいい感じじゃないか。
それにしても、驚くのはこの雪の量だ。近年は降雪量が少なくなったと言われて久しいが、それでもこの付近にはこれだけの雪が降っている。これは荒川に沿って海側から湿った風が吹き上げ、それにより大量の積雪をもたらすからだ。この結果、この付近だけではなく遠く離れた山形県側の宇津峠まで影響を及ぼしていた。宇津峠の近くの沼沢と言う集落で、1938年(昭和13年)1月5日には積雪深が4.2メートルに及んだという記述が小国町史に残っている。この街道が現役であったころには、この積雪量はどれだけの障害になっていたことか。小国の町は雪で孤立してしまって、雪が多い年は下手をすると命取りになっていたかもしれない降雪量で、これでは三島通庸が小国新道・荒川新道を開通させようとしたのも理解できるというもの。
「道路難瞼ヲ除却シ、道線ヲ開通スルハ人智ヲ開明スルノ基礎」とは三島が唱えた言葉の一節だが、こうして思うと改めてその意味に納得する。
その鷹の巣峠への入口に、米沢街道の案内板が設置されていた。案内板はこの米沢街道の新潟県側のみの内容で、地図は玉川までとなっている。玉川と言えば、国道113号で言うと八ツ口、金丸を過ぎて横根トンネル旧道の入口あたりまでだろうか、その辺りまでがこの表示板には記されている。この中には鷹ノ巣峠から榎峠、大里峠(おりとうげ)までが記されていて興味を引くが、こうしてみると米沢街道は、この鷹の巣峠から山中をひた走る道筋を取っていたことがよくわかる。その道は鷹の巣峠の入口に馬頭観音があることから見ても、牛車や馬車が通ることが出来る「明治車道」であったことは間違いないと思うが、その通行の困難さは想像に難しくない。
それに対して現道の国道113号は荒川沿いを走っており、この道筋はまさしく三島通庸が通した小国新道・荒川新道の道筋で、通行しやすい道路を作って他の地域との交流を活発にさせ、陸の孤島状態を無くすことで地域のみならず県全体を発展させようとした三島の考えがわかろうというものだ。さすがは「土木県令(県令 [けんれい] とは現在の都道府県知事にあたる)」。
鷹の巣峠の入口の地点から、米坂線と交差する方向を見てみる。
峠の入口付近は今は雪に埋もれているものの、雪が無くなると玉石の見事な石垣に囲まれた美しい風景になることと思う。その時季が待ち遠しいが、それは先に見える米坂線の陸橋付近も同じようで、同じく玉石積みの石垣で守られた擁壁や法面がここからでも確認できる。早速見てみよう。
手前の電柱や電線がいささか見えにくくしているが、米坂線の盛り土を守る擁壁の石積みの美しさはお分かりいただけると思う。旧道を跨いでいる橋は単純なI型鋼の桁橋であるものの、高い橋台と橋桁から飛び出した枕木の無骨さが、この風景にスパイスを与えてくれている。
米坂線の付近にある石垣に夢中になって撮影している最中、ふと右を見ると鷹の巣峠への道筋と米坂線の間に、小さい沢が流れているのを見つけた。ここで私は感激してしまったのだが、こんな小さい沢の法面にも丁寧に、しかもしっかりと玉石で擁壁が組まれていると言う実に見事な仕事ぶりに感激してしまった。沢には雪解けの澄んだ水が流れていて、ところどころに残る雪を見ながら「こうして山の栄養分が海へ流れ込んでいるんだなぁ」としばし眺めてしまった。
旧道はこの先、現道の113号に合流する道筋を取る。
その合流地点までさほど距離はないが、じっくり見てみたいと思う。