一般国道113号
朝篠トンネル旧道

第7部(完結編)

2020年5月2日 探索・2020年12月12日 公開

前回、朝篠橋を堪能した私は、旧道に戻って松岡の集落を目指すことにした。この通り、道の幅は今の国道の規格と比べると決して広くないものの、左右が畑や田圃になっていて、実に長閑な風景の中を進んでいる。きっと、当時はクルマの大きさも今と比べると小さく、この道幅で十分だったのだろう。大きな大型トラック、高性能で速いクルマが頻繁に行き交う現代からすると、私などは羨ましい限りと思ってしまう。

画像が多少暗くて申し訳ないが、逆光環境だったので暗くなってしまった。旧道のそばには横川が寄り添って進み、相変わらず長閑な風景が続く。汚れたガードレールが旧道の雰囲気満載だが、賑やかなクルマが通行する音も微かに聞こえてくる。現道がすぐそこまで来ているのだろう。旧道区間ももうすぐ終わりだ。

ふと左側を見ると、爽やかな青空が広がって米坂線と現道が横川を渡っている橋梁が仲良く並んでいる。ここから見える米坂線の橋脚は結構年季が入っている印象があり、もしかすると開業当時からの橋脚かもしれない。よく見ると、一番奥に見える現道の赤い桁橋の先に、朝篠トンネルの坑口(画像左側)が見えているじゃないか。左側の山に正面から挑む現道と、それを迂回する米坂線のそれぞれの線形がよくわかる、長閑な良い画像だ。

おっ!踏切だ!

米坂線を渡る踏切が見えてきた。思ったより結構長かったこの旧道も、もうすぐ終点だ。でも、ここまで路肩に標柱は一本も見られなかった。せめて1本くらいあってもいいのにねぇ…だが、この先に民家が見えているので、もしかするとあの辺りに残っているかもしれない。ここまで自転車を進めてきて若干疲れ気味の足をいたわりながら(←老化の証拠(^^;)、注意深く路肩を観察しつつ進んでいく。と思った通り右側に…



「エ」の頭が赤い標柱は、工務省(建設省。現在の国土交通省のこと)の標柱で、おそらくは米坂線の境界で建てられたものだろう。その隣の低い標柱は…てことで確認したのがチェンジ後の画像だ。そこにはなんと…「山形縣」とあるじゃないか!。見つけたぞ、これが道路用地境界を示す標柱だ!。やっぱりここは113号の旧道だった!。

少し進むと、またまた道端に標柱が。ここは少し長めになっていて「山形縣」の文字がハッキリ見えており、どことなく誇らしげだ。旧道探索をしていると、こうして道端にある普通なら気にも留めないような標柱が「ここが旧道である」ことを証明するという、実に大きな意味を持つものになる。このように視点が少し変わるだけで一気に世界が広がることは、旧道探索ならではのものと思う。

ここが現道と旧道の分岐点だ。この付近は松岡集落で、この合流点の少し前に米坂線の羽前松岡駅がある。こうして見ると旧道は左の山に沿うような形で大石の集落を目指していた。それに対して現道は、気持ちいいほど真っ直ぐに正面切って山に挑み、突っ込むように隧を拓くと言う、実にわかりやすい線形だ。これが竣功年月の差で、技術の進化でもある。…でも、技術の進化はわかるけど、なんとなく面白みがないなと感じるのは、私のわがままか(笑)。


さて、合流点をしっかりと眺めた上で、今度は正面の朝篠トンネルの竣功年月を見てみよう。これは朝篠トンネルの銘板を見ればわかるはずだ。その竣功年月が、旧道と現道が切り替わった年月と考えて間違いないだろう。

新潟県は北陸地方建設局の管轄だが、山形県は東北地方建設局の管轄になる。県が変わるだけでも違うものだなぁなどと、変なところで感心してしまった。肝心の竣功年月はと言うと、1974年3月とある。今から47年前で、トンネルだけ先に竣功して取付道路は後からなんてこともあるので、この年月が旧道と現道が切り替わった時期と考えることは出来ないが、この年月に近い日付で切り替わったのは間違いないと思う。

最後に、この旧道で私が一番印象に残った風景を見てみよう。

やはり、ここだろう。ここは旧道の旧道、旧不動沢橋へ繋がる路盤だ。この旧道のすべては、この風景が一番表しているような気がする。途中の道幅は狭かったが、ここだけはおそらく三島通庸が造った道のそのままの幅で、往時の国道113号の面影が一番残っている場所だと思う。

旧道に残る風景は、
今は忘れてしまった何かを思い起こさせてくれる。

一般国道113号
朝篠トンネル旧道

完結。